日本漢文の世界


學橋大鄉君墓碣銘

學橋(がくけう)大鄉(おほがう)(くん)

大郷学橋(1828-1881)は、鯖江藩儒。著書としては『四書読本』、『十八史略読本』、『増訂史記評林』のような漢文教科書のほか、頼山陽の『日本政記』の復刻本『明治新刻・日本政記』の編集などがある。なお、「学橋大郷君」というふうに、号を姓よりも先に書くのは、姓の後に「先生」「君」などの敬称がついたり、あるいは号と姓名を全部書く場合(学橋大郷穆のように)には普通の書き方である。

墓碣銘(ぼけつめい)

墓碣というのは、墓石の丸いものを言う。(方形のものは墓碑という。)墓碣に彫り付ける銘文を墓碣銘という。 

(しば)伊皿子(いさらこ)

現在の東京都港区高輪(たかなわ)。 

長法寺(ちやうほふじ)

「長応寺」の間違いではないかと思われるが、原文に従う。長応寺は、幕末から明治はじめにかけてオランダ公使宿舎となったところ。 

先君(せんくん)

亡くなった父親のことをいう。 

廢藩(はいはん)以前(いぜん)

明治4年の廃藩置県以前。大郷学橋は、明治に入ってからも、廃藩置県まで鯖江藩のために苦心した。

舊藩士(きうはんし)

旧鯖江藩士。旧鯖江藩は、明治4年の廃藩置県により一旦は鯖江県となったが、同年末に小浜県と統合して「敦賀県」となった。しかし明治9年に「敦賀県」は分割され、石川県と滋賀県に分属させられたが、明治14年に福井県として独立し、現在に至っている。

即世(そくせい)

死亡すること。 

賢豪(けんがう)

賢人や豪傑。 

情狀(じやうじやう)

実際の状況。

(めい)

銘は文体の一つで、石碑などに自分を戒めたり、他人を賞賛したりする文章を彫り付けるもの。

泯滅(びんめつ)

跡形もなくなくなること。

患難(くわんなん)

つらく苦しいこと。 

()

友誼。友達のよしみ。

不文(ふぶん)

学問がなく、文章が下手であること。 

本姓(ほんせい)

父親の浩斎が大郷家に養子に来る前の姓。

越前(ゑちぜん)鯖江(さばえ)

越前は、現在の福井県東部。鯖江は、現在の鯖江市で、間部(まなべ)氏の城下(ただし「鯖江城」という城はない)として発達した。 

間部氏(まなべし)

間部氏の祖は、将軍家宣(いえのぶ)および家継(いえつぐ)の側用人であった間部詮房(まなべ・あきふさ、1666-1720)。詮房は、将軍家継の没後、新井白石とともに失脚し、その嫡子・詮言(あきこと)は享保6年(1721年)越前・鯖江に入封した(5万石)。第七代藩主・詮勝(あきかつ、1802-1884)は、天保11年(1840年)西の丸老中に昇進し、天保14年(1843年)に解任となった。その後、安政5年(1858年)再び老中に任じられると、大老・井伊直弼を助けて、「安政の大獄」の指揮を執った。安政6年(1859年)には老中を辞したが、安政7年(1860年)大老・井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、「安政の大獄」の責任を取らされて減封・謹慎となった。

(かう)

亡父のこと。 

藩學(はんがく)

藩校ともいう。藩が子弟教育のために設けた学校。鯖江藩の藩学は「進徳館」という。各藩とも文教に重きをおいていたので、藩学教官は重職であった。

祭酒(さいしゆ)

林家は第三代鳳岡(信篤)のときから代代「大学頭(だいがくのかみ)」という官職を世襲した。これは今で言えば文部大臣のような職である。中国では文部省にあたる役所を「國子監」といい、その長官を「祭酒」と称したので、林家の職名「大学頭」を中国風にいえば「祭酒」となる。

林公(りんこう)

林大学頭。林家を中興した林述斎(はやし・じゅつさい、1768-1841)であると考えられる。

經術(けいじゆつ)

四書五経を研究対象とする学問のこと。いわゆる漢学のこと。 

古河(ふるかは)

渋谷川の河口部分を「古川」と称する。

後進(こうしん)

学問が未熟な後輩。 

誘掖(いうえき)

教え導くこと。

(をか)

他の姓を名乗ること。ここでは養子縁組により、大郷姓になった。 

(きみ)

大郷学橋のこと。学橋の父親が大郷良則のあとを継ぎ、学橋がさらにその後を継いだ。

端厚(たんこう)

品行方正で温和な人柄。

(しゆ)()

節操があること。

謇諤(けんがく)

直言してはばからないこと。

勇往(ゆうわう)直進(ちよくしん)

いかなる困難をも物ともせずに、直進してゆくこと。

(ちよう)

寵愛する。

(べい)()諸國(しよこく)

嘉永6年(1853年)の米国のペリーが来航し、翌年「日米和親条約」が締結された。そして安政3年(1856年)に同国のハリスと交渉し、「日米修好通商条約」が締結された。英、露、蘭、仏の諸国も米国にならって次次と日本との条約締結を要求してきた。これらは、治外法権を認め、関税自主権のない不平等条約で、この条約の改正が明治日本の悲願となった。条約改正の完全な実現は、実に明治44年(1911年)のことであった。

互市(ごし)

お互いに取引をすること。ここでは外国と通商すること。

開鎖(かいさ)()

開国するか、あるいは鎖国を続けるかという決定。

將軍(しやうぐん)建嗣(けんし)()

江戸幕府の第13代将軍・徳川家定(1824-1858)の晩年、実子がなかったため、後継をめぐって「世子問題」が起こり、水戸の徳川齊昭(とくがわ・なりあき、1800-1860)の第七子で一橋家を継いだ慶喜(よしのぶ、1837-1913)を推す一橋派と、紀州の徳川慶福(よしとみ)を推す紀州派の政争となった。一橋派は、父君の水戸公・徳川齊昭をはじめ、尾州公・徳川慶勝、越前公・徳川慶永、外様では薩摩公・土佐公らがいた。これに対し、紀州派は大老・井伊直弼、老中・松平忠固らがいた。この政争は結局、紀州派の勝利となり、世子は徳川慶福に決定、慶福は十四歳で将軍職を継ぎ家茂(いえもち)と名乗った。

雄藩(ゆうはん)

薩摩藩、土佐藩などを指す。

老中(らうぢう)

「老中」は江戸幕府の最高役職で、二万五千石以上の譜代大名から四・五名が選ばれた。鯖江藩主・間部詮勝(まなべ・あきかつ、1802-1884)は、天保11年(1840年)、安政5年(1858年)の二度「老中」に任じられている。間部公は大老(大老は臨時職で老中を統括する)・井伊直弼を助けて、「安政の大獄」の指揮を執った。

京師(けいし)

京都のこと。鯖江藩主・間部詮勝は、大老・井伊直弼の命により、「安政の大獄」の渦中であった安政5年(1858年)9月に京都に入り、井伊直弼の家臣・長野主膳(ながの・しゅぜん、1815-1862)の補佐を受けて朝廷工作と志士の逮捕に勉めた。この間に梅田雲浜や頼三樹三郎らの一斉逮捕が行われている。

土藩士(とはんし)

「土佐藩士」の略。この土佐藩士は、橋詰敏という人。

()(ゑつ)水戸(みと)諸公(しよこう)

尾州公・徳川慶勝、越前公・徳川慶永、水戸公・徳川齊昭のこと。三公は、「将軍世子問題」で、安政5年(1858年)6月24日に、いわゆる「押し懸け登城」をして、大老・井伊直弼と直談判に及んだ。これが将軍・家定公の怒りにふれた。家定公はすでに病が重篤であったが、7月4日に小康を得て三公の処分を決定したということになっている。しかし、家定公は7月6日に薨去した。その当日に、水戸老公は駒込の屋敷に幽閉、尾州公は外山の屋敷にて隠居、越前公は致仕謹慎を仰せ付けられた。(この辺の事情は、いろいろな憶測を呼んでおり、将軍毒殺説さえある)。そして、第14代将軍に家茂公が就任した。

嚴譴(げんけん)

厳しいお咎め。「将軍世子問題」で、水戸老公駒込の屋敷に幽閉、尾州公は外山の屋敷にて隠居、越前公は致仕謹慎を仰せ付けられたことを指す。

主公(しゆこう)

土佐藩主・山内容堂公(やまのうち・ようどう、1827-1872)のこと。容堂公は「将軍世子問題」では、一橋派の有力者として、一橋慶喜の擁立に尽力したが、安政6年(1859年)には、大老井伊直弼の内命により隠居謹慎となった。万延元年(1860年)に至り、謹慎を解かれて再び政治の舞台で活躍し、将軍・慶喜に協力して「公武合体」政策を推し進めた。慶応3年(1867年)、後藤象二郎の進言を容れ、将軍・慶喜に「大政奉還」を建白した。維新後は、議定、内国事務総督、議事体裁取調所総裁、上局議長などを歴任したが、明治2年(1869年)にはすべての官職を退いて詩酒に耽り、明治5年(1872年)薨去した。

()(おな)じうす

山内容堂公は、「将軍世子問題」で、一橋慶喜の擁立に尽力した。そのために「安政の大獄」では「隠居謹慎」の処分を受けた。

執政(しつせい)

政権を掌握している人のこと。ここでは、大老・井伊直弼(いい・なおすけ、1815-1860)のこと。井伊大老は、「将軍世子問題」を解決する一方、外交ではアメリカ公使ハリスと「日米修好通商条約」に調印した。これが勅許なしに調印されたことで物議をかもし、大老は幕藩体制維持のために、「安政の大獄」を実行したが、安政7年(1860年)3月3日(3月18日に改元して万延元年)、「桜田門外の変」で兇刃に倒れた。

藩情(はんじやう)

藩士たちの感情。主君が無下なことをされたら、臣下が怒るのは当然である。

蹶起(けつき)

急に立ち上がること。

細故(さいこ)

小さな、とるに足りない事柄。

忠悃(ちうこん)(じやう)

忠実・誠実なまごころ。

黨人(たうじん)(ごく)

いわゆる「安政の大獄」のこと。これは、「将軍世子問題」(前述)に端を発し、日米修好通商条約調印を契機に京都において活発化した反幕府運動を弾圧したもので、処罰は反幕府派の公家、大名にとどまらず、下級武士の志士たちにまで及んだ。吉田松陰、頼三樹三郎、橋本左内はこのとき刑死している。

深探(しんたん)密索(みつさく)

深く綿密な探索。安政の大獄が起こった安政5年(1858年)ころ、攘夷派は「反井伊大老」という大同団結になっていた。その中心地・京都において梅田雲浜(うめだ・うんぴん、1815-1859)、頼三樹三郎(1825-1859)ら志士がまず逮捕され、ついで公家の家臣らが次次と逮捕された。近衛家の老女・村岡矩子(むらおか・のりこ、当時72歳)などの高齢者も仮借なく逮捕されている。その後、追求の矛先は、水戸藩、長州藩、他藩におよび、長州の吉田松陰、越前の橋本左内などが捕らえられた。

營救(えいきう)

極力弁護して、危難から救うこと。

昌平黌(しやうへいくわう)

江戸幕府の最高官学で、朱子学を根本とし、大学頭・林家が主宰した。現在の湯島聖堂はその跡地。

俊雄(しゆんゆう)

豪傑。すぐれた人物。

(びん)

非常に聡明であること。

才藝(さいげい)

才能と技芸。

精妙(せいめう)

非常に精彩があり、かつ巧妙であること。

置酒(ちしゆ)

宴会を開く。

言咲(げんせう)

「咲」は「笑」に同じ。談笑すること。

(をん)

柔和である。

徜徉(しやうやう)

ひまに任せてブラブラと徘徊すること。

和適(わてき)

こころのままに気持ちよく娯しむこと。

憂色(いうしよく)

憂鬱な表情。

少參事(せうさんじ)

「参事」は、法案や命令などの作成を掌理する職務。明治2年(1869年)の版籍奉還後は、藩主が「藩知事」となり、その下に「大参事」、「少参事」などの職が置かれた。この制度は明治4年(1871年)の廃藩置県後には廃止された。

監察長(かんさつちやう)

今日でいえば都道府県の監査事務局長のような職。

毛利氏(もうりし)

毛利氏は長州藩主。毛利氏の祖は、毛利元就(もうり・もとなり)。ここで、毛利氏を伐つというのは、いわゆる「長州征伐」のこと。

將軍(しやうぐん)

第14代将軍・徳川家茂(1858-1866)。

朝臣(てうしん)

公家のこと。

時情(じじやう)

そのときの情報。

周旋(しうせん)

ここでは、根回しとか政治工作の意。

大義(たいぎ)

尊王の大義。幕末の諸藩は、天皇家に対する忠誠という大義と、徳川家の恩義に対する報恩という二つの義務の板ばさみになった。その難しい情勢判断のために、上記の「周旋」などが必要になった。

中葉(ちうえふ)

ある時代区分の中期。ここでは、江戸幕府統治時代(江戸時代)の中期。

汗馬(かんば)(らう)

戦功。具体的には、江戸幕府成立当時における関が原や大阪の役等での戦功のこと。

(おん)

諸藩がそれぞれ領土を与えてもらったのは、徳川将軍家の恩である。恩には忠義で報いなければならない。

朝幕(てうばく)

朝廷と幕府。

世勢(せいせい)

世の情勢。

顯要(けんえう)

高位の要職。山内容堂公は、維新後、内国事務総監等の顕職を歴任した。

患難(くわんなん)()

辛酸をなめる。困難な経験をする。安政の大獄のときに、大郷学橋が山内公を救おうとして起こした行動のために、鯖江召還、事実上の謹慎等の辛酸をなめたこと。

重用(ちようよう)

要職に就ける。

(つつみ)威卿(ゐけい)

この文章の作者・堤静斎のこと。「威卿」は、静斎先生の字(あざな)。

(つれあひ)

仲間のこと。この文章の作者・堤静斎のこと。

(かれ)

井伊大老のこと。

()

この「式」は、『詩経』の「式微」などに出てくる発語のことばで、意味はない。「夫」と同じく「それ」と訓んでいる。

優裕(いうゆう)

満ち足りている。

千古(せんこ)

ここでは遠い未来の世のこと。

2006年6月18日公開。