姓・号 | 堤 靜齋(つつみ せいさい) |
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生没年(享年) | 文政8年(1825)―明治25年(1892) |
諱(いみな) | 正勝(まさかつ) |
字(あざな) | 威卿(いけい) |
通称 | 省三(しょうぞう) |
雅号 | 静斎(せいさい) |
謚(おくりな) | |
出身地 | |
師の名 | 広瀬淡窓、安積艮斎 |
官職等 | 幕臣。 |
代表的著作 | 『皆山閣詩抄』
『日本蒙求』 このほかに『農学路志留遍(みちしるべ)』『国史要略』『皇朝史鑑』などの通俗教科書類があります。 |
伝記: 幼少のころ大分県日田において、広瀬淡窓(ひろせ・たんそう)の咸宜園(かんぎえん)に学んだ後、上京して安積艮斎(あさか・ごんさい)の塾に入り、また幕府の官学である昌平黌(しょうへいこう)に学んだ。その後、江戸で漢学塾を開いて講義をするようになり、人の推挙によって幕府直参となり、徒士目付を仰せ付けられた。 「将軍世子問題」が起こったとき、水戸烈公ら一橋派は幽閉・謹慎等の処罰を受け、土佐の山内容堂公も連座して処罰されようとした。このとき、土佐藩士・橋詰敏という人が静斎を訪れ、政治工作を依頼した。静斎は内憂外患が同時に起こったことを憂え、また土佐の山内公のような逸材が処罰されることで人心が幕府から離れることを慮り、当時老中の職にあった鯖江公・間部詮勝(まなべ・あきかつ)の側近・大郷学橋(おおごう・がっきょう)に説き、その主君・間部公を諌めさせた。ところが、このことが幕府に知れ、逮捕されそうになったが、極力弁護してくれる人があったために辛うじて逮捕を免れた。 慶応元年に始まった第二次長州征伐には、静斎は幕府軍とともに大阪へ赴いた。静斎は大島での戦い、小倉での戦いに援軍を募るため東奔西走したが、諸藩はすでに薩長と通じるものが多く、事は容易に進まず、大島は結局長州藩に奪回された。小倉の戦いでは、苦労して佐賀藩から救援の約束を取り付けたが、その翌朝、総督であった老中・小笠原長行は将軍・家茂の死去を聞いて長崎へ退却してしまい、静斎はなすすべもなく取り残された。こうして第二次長州征伐は失敗に終わり、幕府の権威は地に落ち、やがて明治維新となる。 明治維新後、一時官途に就くが、旧幕臣のため志を得ず、退いた。その後、明治11年(1878年)に私塾「知新学舎」を開いた。 明治二十五年十一月十三日病没。 戦前、早稲田大学の看板教授として著名であった松平天行(まつだいら・てんこう、1863-1946)は弟子。天行は、次のように述懐している。 「堤静斎先生は佐幕派の人であったから不遇で、始めて先生の宅に挨拶に参上した時、部屋には僅かに本箱が二つあったのみだったのには驚いた。」(三浦叶著『明治の碩学』、汲古書院、61ページ) 「私が先生と謂うべき先生に就きましたのは堤静斎先生が始めで、十五歳の時入門致しましたが、是は先生がまだ知新学舎を開かれなかった時代で、弟子は私一人だけであった所から、十二分の薫陶を忝くすることが出来ました。」(『天行詩文鈔』附録「自序代り」3ページ) 「堤先師の処では毎週文一篇詩二首を作らせられました。初は文章はどんなのが善いのか一向判りませんでしたが、其時先師の亡友で松林飯山という人の遺文が出版になったのを先師が一部下さいまして、文章にも手本が要る、お前には壮悔堂集が善いと思うが今の程度ではどう云う処を学んだら善いか見当が着くまい、飯山は壮悔堂を学んだ人だから先ず此れを読んで見ろと申されましたので早速読んで見ると実に面白く感じました。私の漢文の趣味は此れから生じました。前に申した通り門人は私の外にはありませんでしたので、先師は私の誘掖に全力を注がれ、添削の如きも丁寧親切を極め、叱言も戴きましたが時時お誉にも預かったので、張合が出て益益奮励したため自分ながら多少の進境が認められるようになりました。漢文の素地の出来たのは偏に静斎先生の御蔭です。但だ同学者がなかった為め朋友切磋の益は得られませんでした。それから程経て二松学舎の塾生四五十名が舎監と衝突の結果、二松学舎を脱退しまして静斎先生の処へ新に入門したいから特に塾を開いてくれろと云って頼みに来ました。此れが知新学舎の起源であります。」(同5ページ) | 2006年6月14日公開。 |