東京の隅田川。
「舸」はあとでも出てくるように、ふつうは「大きな船」のことだが、この文章では「ボート」のこと。ここに書かれたレガッタは「東京大学走舸組」というクラブが主催したもので、そのクラブ名の「走舸」の字をそのまま使用している。(ちなみに「走舸」は名詞としては「機敏な戦艦」の意となる。)
仙台の野崎さんからの以下のご教示をいただきました(2003年11月16日のメールから一部引用)
舸(か)はCutterというボートの一形式の当て字です。海軍が昔から艦載ボートがカッター形式だったのでこの字を使っていました。舟偏に「カ」と省略して書くこともありました。
明治初期にボートレースというとレガッタよりカッターレースの方が多かったようです。それがレガッタに転用されているのか左右にこぎ手が並んでいることからレガッタでなくカッターで行われたのではないか、その辺一寸考察が必要かと思います。
ボートレースの歴史では一列で漕ぐ細いボートをヴェニスのゴンドラ型ボートのレースにちなんでレガッタというようです。ただし明治のボートレース、やはり船の専門家以外は勝敗にしか興味がなかったようで、船の種類やレースの詳細についてはあいまいです。文章だけでは判断できないと思います。
明治17年(1884年)。
2年後の明治19年(1886年)に帝国大学となるまでは「東京大学」と称していた。
レガッタ(regatta)の訳語。
「手足」は文字通り手と足のこと。「労動」とは、体を動かすこと。要するに運動すること。
海軍兵学校。当時は東京の築地にあった。明治21年(1888年)に広島県の江田島に移転した。
密貿易等の海水上、河川上の犯罪を取り締まるために明治10年(1877年)に初めて設置された。「水上警察」という名称は明治12年(1879年)から使用している。
普通は船尾、すなわち「とも」の部分を言う語だが、これは後出のように『文選』の『呉都賦』にある「弘舸舳を連ぬ」という句の引用である。よって『文選』の李善注に「舳は前船也」とあるのに従って船首、すなわち「へさき」の意に解するべきである。「舳を連ぬ」とは、たくさんの船がへさきを並べて停泊していること。
はじめのルール説明。
ボートの責任者。当時の新聞記事などから推し量ると、舵手(コックス)の役目をする選手がその任にあたったものと思われる。現在のレガッタでは、ここに書かれた役は「競漕委員」がしている。
「伍」とは、もともと五つ一組のことだが、ここでは競漕の組のこと。後出のように、このレガッタでは三艘ずつのボートが一組として競漕し、前の組がレースを終えてから、後の組がレースに向かうというルールであった。
漕手。
ここでは整列させる意。ちなみに、もとの意味は「整理する」こと。
ここではユニフォームに着替えること。(ちなみに「裝を解く」とはもともと旅装を解いて休むこと。)
色のついた帽子。今日でも学校の運動会などで用いる、赤帽・白帽などの類。
順番のこと。ふつう抽籤で決める。
発艇位置。
川の中ほどという意。
スタート位置を示すために船を使ったもの。「発艇台」(スタート時に艇尾をつける台)のかわりに船を使用したものと思われる。
「浮標」はブイのこと。「回標」は、折り返し位置の標識。
一歩は六尺なので、六歩では約11メートルとなる。ちなみに現在の規則では、競漕レーンは12.5メートルないし15メートルと定められている。
競漕レーン。現在の規則では、競漕レーンは1,000メートルまたは2,000メートルの直線と定められている。
審判。
色のついた旗。勝ったチームの色の旗を振った。
漕手全員がボート上でオールを空に向かって立てる。
「町」・「間」ともわが国固有の距離の単位。「町」は約109メートル。1町は60間。すなわち「間」は約1.8メートル。従って、4町10間では、約450メートルのレーンということになる。(当時の新聞『時事』の記事には、このレガッタでは「1マイル以上の長きに渉り」競漕したとあるので、折り返しコースだったと考えられる。)
これは漕手6人+舵手(コックス)で、シックスと呼ばれるレース形態であるが、今日の公式ルールにはシックスのレースはない。しかし、当時はさかんにシックスのレースが行われていた。
前出の「舸長」の役目。この役目を現在は「舵手(コックス cox)」と呼んでいる。艇尾に乗りこんで、楫をとり、漕手に号令をかけてボートを安全かつ迅速に進行させる重要な役目である。
これを見ると、現在のボートレースのように漕手が一列に並ぶ方式ではなく、左右二列になっていたことがわかる。
三艘ずつが競漕したことがわかる。
詩経・秦風の『蒹葭』の詩にある句。「宛」は「ちょうど」、「まるで」という意味。ちょうど水の中央にあるかのようだ。
いとも簡単にやりとげることができる。
「神」は精神。「旺」は盛んなこと。意気軒昂なこと。
すこしの間。
むかでの足。
オールで波を立てる様子。
「兔児」はうさぎ。うさぎが水の上を走るようにボートが水上を進んでゆく形容。
「闖」は急に現れること。「巨魚」はボートを大きな魚に見立てている。
大声で叫ぶ声。
大声で応援すること。
ものすごく速いこと。
左右の船にはさまれた、真中の列の船。
翻覆。定めなく変化すること。
銀のカップ。(当時の新聞『時事』の記事には「勝者へは首事服部一三氏が銀のメダルを与えたり。」とあるので、賞品はカップ=賞盃ではなく、メダル=賞牌であったらしい。)
誇って、見せびらかすこと。
漢の揚雄(ようゆう)のこと。揚雄(前53-後18)は、蜀の成都に生まれた。どもりのため、人付き合いを好まず静かに思索にふけり、『論語』に倣って作った『法言』、『易経』に倣って作った『太玄経』などの著作のほか、各地の方言を集めた『方言』が有名。また、賦の名手で多くの佳作がある。しかし、晩年、簒奪者の王莽に媚びたことが批判されている。
揚雄の『方言』からの引用。「南楚江湘」とは南方のこと。つまり当時の南方方言である。(楚は春秋・戦国時代に南方の大国であった。また、長江・湘江はいずれも南方の地を流れる川であった。)
左思(250?-305?)は西晋の詩人で、『三都賦』が有名。この作品が出ると人人が争って伝写したので、「洛陽の紙価」が高騰したと伝えられている。『三都賦』は『文選』にも入っている。
左思の『三都賦』の第一。ちなみに第二は『呉都賦』、第三は『魏都賦』。この「弘舸舳を連ぬ」という語は、実は『蜀都賦』ではなく、『呉都賦』にある。
孫権(182-252)は、三国呉の初代皇帝。曹操・劉備と対抗して、江南を固め、呉を建国した。
速度の速い戦艦。(もとは足の速い馬のこと。)
とくに足の速い馬。「しゅんば」ではなく「しゅんめ」と読む。
穂積陳重(ほづみ・のぶしげ 1856-1926)。穂積陳重博士は、伊予宇和島藩の貢進生として大学南校へ入学し、明治9年(1876年)イギリスおよびドイツへ留学、明治14年に帰国した。ただちに東大法学部講師となり、翌15年法学部長となった。民法の改正等に多大な功績がある。のち、帝国学士院院長・枢密院議長など。男爵。(穂積重遠博士は子息)。
普通ではない優れた勢い。
すばらしい競漕。
まれにしか見られない現象、見もの。
2003年11月16日公開。