日本漢文の世界


贈正四位佐久閒象山先生碑現代語訳

正四位を追贈された、佐久間象山先生の碑

重野 成斎
 象山先生は、名を啓(ひらき)、字(あざな)を子明、通称を修理(しゅり)という。姓は平氏であり、先祖は高望王から出ている。安房(千葉県)の佐久間荘に住んでいたので、佐久間を氏とした。元亀・天正のとき、玄蕃の允(げんばのじょう=官名)であった佐久間盛政は、勇将として有名である。元禄時代、備中守であった某は、信濃の飯田に領地を持っていたが、長沼城に移封され、その後ある事件に連座して、佐久間家は取り潰しとなった。その子孫が松代(長野県)の真田侯に仕えたのである。先生の祖父は名を国正、通称を彦右衛門といい、父は名を国善、通称を一学という。
 先生は容貌すぐれ、眼光するどく、一見して偉人と分かった。先生の学問は、世のために役に立つことを主眼としたが、そのあふれる才能は、詩や書画にも生かされ、作品はすべて逸品である。先生は、かつて象山(ぞうやま)のふもとで易経を学んだので、「象山」を雅号とされた。壮年になってから江戸へ遊学し、昌平黌で佐藤一斎に学説上の疑問を質問した。朱子学では一家を成したが、平行して洋学も学び、兵法・作戦論をもっとも好んだ。伊豆の韮山(にらやま)で、江川英龍(えがわ・ひでたつ)から西洋砲術を学び、『砲卦』を著して、砲術を易の六十四卦になぞらえ、その奥義を明らかにした。先生は言われている。「二百年以上平和が続いて、為政者はだれも外国の実情を知らないため、急な外患があっても、正確な情勢分析ができるないであろう。」そこで、ますます蘭学を究め、『皇国同文鑑』、『増訂和蘭語彙』の二冊を著した。このころ松代藩主・真田幸貫公が幕府の老中となり、海防の事務を担当することとなった。先生は藩主のために、銅の仏像や、梵鐘を溶かして大砲や銃を作るという政策を献言した。
 嘉永六年(1853年)、アメリカの使節が浦賀に来て、貿易開始を希望してきた。幕府内は議論百出で結論がでず、世間も物議騒然となった。先生はここで再び十箇条の策略のほか、戦艦建造について建白した。安政元年(1854年)、アメリカ使節が再訪して、再び貿易開始を迫った。幕府は下田港を開港しようとした。しかし、先生は言われた。
「下田は、地形が険しくて、急に軍をさしむけることができません。横浜のほうがよろしかろうと存じます。」
 そのため幕府は、アメリカ使節と横浜で会見し、松代・小倉の二藩に命じて横浜沿岸の護衛をさせた。先生は藩の家老・望月貫恕とともに兵の監督に当たったが、その指揮ぶりはまことに整然としていた。外人たちは感歎して立ち去った。
 当時、先生の名声は天下を動かし、先生のもとには各地から名士が競って集まり、時事を議論した。なかでも長州藩士、吉田義卿(松陰)は先生の説に最も感激して、自分で海外の動静を探りに行くことを志し、先生に別れを告げた。ところがその計画が発覚して吉田は逮捕され、先生の事件へ関与も発覚した。そのため連座して数年間獄に繋がれた。
 ちょうどこのとき、朝廷は幕府・諸藩に条約締結について諮問していた。松代藩主は、先生に命じて意見書の草案を作らせた。幕府も先生の罪を赦し、将軍家茂公から京都での任務を命ぜられた。先生はさっそく赴こうとした。まわりの者は、京都へ行くと命が危ないと心配した。先生はなげいて言われた。
「君たちは、そもそも私を大切に思うのか、それとも国家を大切に思うのか。国家を大切に思うなら、私の行くのを邪魔しないでくれ。」
 みなの者は、涙の中に先生を見送った。
 この年の七月、先生は果たして京都で刺客に殺されてしまった。享年五十四歳。
  先生は一個人にすぎないが、天下の安危に命がけで関与して、正論を張り、利点弊害を指摘して、まったく遠慮しなかった。世間では鎖国・攘夷論が主流だったが、先生はただ一人開国・貿易論を唱えた。そのために暗殺の災いに遭われたのである。残念さは言葉にならない。しかるに、その後まもなく明治維新となり、今日の隆盛を見るに至った。これはいったい誰の功績か。先生の功績ではないか。
 明治二十三年(1890年)、先生の門人・旧友が、資金を募って大きな石碑を彫り、横浜の伊勢山に設置することになった。先生は一生開国論を主張せられたのであり、横浜の開港も先生の発案によるものだからである。そして私ごとき者が碑文作成を依頼された。私は象山先生と羽倉簡堂翁の家で知り合った。羽倉翁は、象山先生の才能を尊ばれ、いつもそばに招き寄せて先生の議論を聞いておられた。私は当時二十四五歳の若造にすぎなかったが、その座談に同席していた。黙霖という僧が、羽倉翁に贈った詩の中に、「大賢人は佐久間、小賢人は重野」とある。私は浅学菲才で、とても象山先生と肩を並べることなどできないが、老碩学のもとで何度も意気投合したことは、決してかりそめの縁ではないのである。よって、碑文作成を辞退せず、大略を記した次第である。
 先生の議論・文章は、みな熟知しているから、ここには大きな論旨のみを挙げた。
 先生には、次のような自賛の語がある。
 「私は二十歳になって、自分のような一個人が松代藩の藩政を動かしうることを知った。三十歳になり、自分が日本国をも動かしうることを知った。そして、四十歳になって、自分が全世界を動かしうることを知った。」
 先生の一生は、まさにこの言葉のとおりであった。

2002年8月31日公開。