姓・号 | 重野 成齋(しげの せいさい) |
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生没年(享年) | 文政10年(1827)-明治43年(1910) (84歳) |
諱(いみな) | 安繹(やすつぐ) |
字(あざな) | 士徳(しとく) |
通称 | 厚之丞(あつのじょう) |
雅号 | 成斎(せいさい) |
謚(おくりな) | |
出身地 | 薩摩 |
師の名 | 昌平黌 |
官職等 | 薩摩藩儒、東京帝国大学教授、文学博士等 |
代表的著作 | 編年日本外史(16巻。岡鹿門らと共著。頼山陽の『日本外史』を編年体に直したもの。)
稿本国史眼(7巻。久米邦武、星野豊城と共著。神代から明治にいたる漢文訓読体の編年体通史。) 大日本維新史(2巻。中国人に読ませる目的で叙述されたもの。) 帝国史談(2巻。大槻磐渓の『近古史談』に倣って作ったもの。) 成斎文集 成斎遺稿(8巻) |
伝記: 成斎は薩摩藩士の家に生まれ、嘉永元年、昌平黌に入り、羽倉簡堂、塩谷宕陰、安井息軒ら知遇を得る。羽倉簡堂のところでは佐久間象山に会い、それまでの尊王攘夷を捨てて開国論者となる。しかし、藩の門閥家らに陥れられ、切腹させられるところを、藩主・島津斉彬が成斎の才を惜しみ鬼界ヶ島に流罪とした。流罪中、島の蔵書家・鼎氏の膨大な蔵書をすべて読み込んで学問を磨き、あとで流されてきた西郷隆盛とも交流した。 その後「生麦事件」でイギリス軍艦が鹿児島港を包囲したとき、成斎は藩命で英国行使パークスと談判し、藩と国を窮地から救った。 明治4年(1871年)上京し、修史館長などを歴任。明治14年(1881年)東京帝国大学文学部教授となり、後進をよく指導した。徹底した史料蒐集による実証的史学を創始し、近代史学の基礎を築いた近代史学界の功労者である。しかし、実証主義が行き過ぎていわゆる「抹殺史観」となり、囂囂たる非難が巻き起こり、成斎は「抹殺博士」なる渾名を奉られている。 明治15年(1882年)修史局において、漢文体の編年史『大日本編年史』の編纂が開始されると、成斎はその中心者となり、鋭意編纂に取り組んだ。これは、実証史学による漢文の編年体通史となるはずであり、その一端は明治23年(1890年)に出版された略史『稿本国史眼』に伺われる。ところが、明治24年(1891年)に、編纂委員の一人である久米邦武が『神道は祭天の古俗』という論文を発表したところ、各方面から非難が巻き起こって筆禍事件に発展し、久米は学会を隠退せざるを得なくった。この事件とともに『大日本編年史』の編纂も中止されてしまった。 成斎の業績は多岐にわたるが、三菱創始者である岩崎男爵家が創設した「静嘉堂文庫」の漢籍蒐集に当たったことでも知られる。同文庫の創設の当初の目的は、成斎の修史事業を助けることであった。同文庫は、清国の蔵書家・陸心源の旧蔵書を一括購入するなどして、現在でも世界有数の漢籍コレクションを誇っている。 成斎は漢学に造詣が深く、とくに作文にすぐれていた。早くから名声が高かったため、序文や碑文などが多いのも特徴である。若いころは斎藤竹堂を慕い、欧陽脩・蘇東坡の文を学んだが、晩年には清朝の桐城派の文を喜び、ことに姚姫伝の文を好んだ。麗沢社(りたくしゃ)・廻瀾社などの文社に関係し、後進を熱心に指導した。文章では川田甕江と名声を二分したが、二人の仲は悪かったと伝えられる。 明治40年(1907年)にオーストリアのウィーンで万国学士会院聯合総会が開催されたとき、成斎は81歳の最高齢で参加した。その後、シベリア鉄道を経て満州へ入り、弟子の西村天囚の案内で中国各地に遊び、張之洞ら中国の学者らと唱和している。 明治43年(1910年)、84歳で没。 | 2001年8月26日公開。 |