箕面山に游び遂に京に入るの記
齋藤 拙堂
余攝に在ること既に浹旬、遂に將に京に入らんとす。久しく箕面の勝、畿甸に冠たるを聞き、迂路して過觀せんことを謀る。復子信と倶にす。
二十七日下午、大阪を發し、東北して長柄川を渡り、行くこと五里にして山下に至る。盤廻して上れば、則ち淨境別に開け、清溪奔駛し、紅欄の橋架せり。此の間は竹經となり松緯となって、一たび往けば幽折す。心甚だ之を樂しむ。但し日は昏黑にして、寺門閉ぢたり。門前の茶店に投宿す。背は即ち溪にして、終夜聲有り、琅然として枕に到る。明旦門開く。觀音堂に至る。稍前めば、左右に磴有り。左を行者堂と爲し、右を辨天宮と爲す。並に宏麗なり。合せて之を名づけて瀧安寺と曰ふ。滿山皆楓にして、爛然として霜に飽き、色は渥丹の如く、水・巖の間に綺錯せり。時に墜錦有りて波に點じ、杳然として流れ去る。談ずる者多くは言ふ、「其の勝は高雄の上に在り」と。意ふに然らん。
後門を出で、徑に沿ひて行く。楓盡き松來り、水窮まり石出づ。巨巖有りて竦峙す。大きさ廈屋の如し。「唐人戾」と曰ふ。「戾」の言爲るや「反」也。相傳ふ、「昔外國人有り。來遊して此に至り、險を畏れて反り去る。故に名づく」と。
更に進めば、大聲鞺鞳として、山谷に震ふを聞く。徑轉ずれば、瀑布の絶壁に掛るを望見す。長さ二百尺可り。濆珠空に飛び、跳擲して下り、潭底に至りて、復逆に上り、輒ち轟然として雷動す。一佛堂有り、瀑に面す。余子信と登りて觀る。凛然として魄悸し、久しくは留まること能はずして去れり。聞くならく、「近畿の瀑布は那智を以て第一と爲し、此の瀑之に亞ぐ」と。想ふに當に然るべし。
且つ此の瀑は直下し、略遲回せず。之を曳布の瀑の曲折して下る者に比すれば、其の勝各異なり。曲なる者は委蛇態を著く、小品の文也。直なる者は奔放勢に駕す、大篇の文也。或謂く、「文は曲を貴びて直を賤む」と。通論に非ざる也。余二瀑を觀て、文に大小の別有ることを知れり。
堂の右自り磴を躡みて上り、瀑頂に出づ。頂凹みて碧を蓄ふること、方三丈。上流より灌注し、底深くして測られず。蓋し瀑の源也。後門從り此に至るまで、凡そ十八町。又一里許りにして、勝尾寺に至る。中堂に觀音大士を安んず。西國三十三所の一爲り。
前門を出で、阪を下ること五十町にして、郡山に至る。遂に北上して京に入る。數日にして、往きて高雄及び東福寺に遊ぶ。兩地の楓、都下に冠たり。號して勝區と稱す。然れども余は終に箕面の勝を忘るること能はざるなり。
2010年5月1日公開。