人力車
大槻 如電
東京の吳服坊に、鈴木德次郎といふ者有り。曾て謂へらく、「外國人凭る所の椅子、之を車輪に架して以て焉を曳けば、二人の一輿を舁くの迂に勝る。」と。乃ち輪匠高山幸助と謀り、安車を創製せり。名づけて人力車と曰ふ。東京府に稟准して以て行ふ。事明治三年に在り。當初必ず官許の二字を以て標す。蓋し輿丁の阻害を防ぎし也。其の便、其の捷、且つ其の價の廉なるを以て、乗る者日に加はり、造る者月に多し。之を行ふこと期年、輿遂に其の跡を絶つに至れり。
爾來二十餘年、京中今三萬車有り。之を全國に計ふれば、幾十萬なるを知らず。實に行路の一大變革爲り。而して徒に國内而已にあらざる也。十數年來、支那、朝鮮に輸する者、毎歳三四千輛。彼の土之を東洋車と稱す。行將に八道十九省に遍からんとす。
語に曰く、「車軌を同じうし、書文を同じうす。」と。三國既に同文の國爲り。今又軌を同じうす。而して我より之を導く。豈に快ならず乎。
2001年11月10日公開。