日本漢文の世界


紀宕陰・息軒二先生事現代語訳

塩谷宕陰・安井息軒の両先生のこと

西村 天囚
 塩谷宕陰(しおのや・とういん)・安井息軒(やすい・そっけん)の両先生は、ともに松崎慊堂(まつざき・こうどう)に師事した。
 松崎慊堂は学問該博で、文章もうまく、書道にも巧みであった。東京の岩崎家が創設した静嘉堂文庫には『慊堂日記』二十余冊が所蔵されている。これは、雑事を記録したり、文章の草稿を作ったりと、思うがままに自由自在に筆を走らせており、決して読みやすい代物ではない。その中には、法帖の臨書まで含まれているのだが、楷・行・草・隷・篆の五体ともに力強く味わい深い書体であるのは流石で、慊堂が平生から書道を好んでいたことがよく分かる。それにも拘わらず、慊堂の弟子たる宕陰・息軒の両先生は、どちらも書がまるで下手なことで有名であり、したがって書作品もほとんど伝わっていない 。
 宕陰は常常、「私は武士であり、学者ではない」と公言しており、「学者伝には載せてくれるな、死んだとて。よろいかぶとを一かさね、大事に家に置いてある。」などという詩を作るくらいに気負っていたのだから、書道の練習など眼中になかったのも頷ける。
 息軒は、慊堂の塾で塾頭を務めていた。慊堂はある日、息軒に書道の法帖を渡してこう言った。「君は才能もあり、学問も優れている。将来学者として大成することは間違いない。そうなると、いろいろな人から書を求められるが、君は字がまずくていけない。今のうちに書道をきちんと学んでおかないと、後悔することになるぞ。」息軒は、師匠のことばを心にとどめて決して忘れなかったので、暇があったら書道の練習に努めた。それで字は随分と上達した。しかし、後年、古典のテキストクリティークに専念するようになってからは、論文の執筆に余念がなく、昼夜を問わず勉強につぐ勉強で、他事を顧みる余裕は全くなくなった。そして書道の練習もできなくなり、字は元の木阿弥の下手にもどってしまった。息軒の書として今に伝わるものは、字が上手なものとまるで下手なものとがあり、全く別人が書いたようであるのは、こういう事情があるからだ。 

2005年3月27日公開。