姓・号 | 西村 天囚(にしむら てんしゅう) |
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生没年(享年) |
慶応元年(1865年)- 大正13年(1924年) (60歳) |
諱(いみな) | 時彦(ときつね) |
字(あざな) | 子駿(ししゅん) |
通称 | |
雅号 | 天囚(てんしゅう)、碩園(せきえん) |
謚(おくりな) | |
出身地 | 鹿児島県種子島 |
師の名 | 前田豊山、重野成斎、島田篁村 |
官職等 | 大阪朝日新聞主筆、京都帝国大学文科大学講師、重建懐徳堂理事、文学博士 |
代表的著作 | 日本宋学史 懐徳堂考 碩園先生遺集(文集三巻、詩集一巻、屈原賦説一巻) |
伝記: 天囚は、明治から大正にかけて、大阪朝日新聞の主筆として文名を馳せた。朝日新聞のコラム「天声人語」の名づけ親といわれている 。 種子島の出身で、明治16年(1883年)、東京帝国大学古典講習科に入学し、重野成斎の内弟子となったが、放蕩がたたって生活が破綻し、成斎からも破門され、古典講習科も中退している。そのありさまを小説『屑屋の籠』に書いたところベストセラーとなり、以後つぎつぎと小説を発表した。 明治23年(1890年)大阪朝日新聞に入社。明治26年(1893年)、単騎シベリア横断の福島中佐の旅行談が独占大スクープとなる。明治30年(1897年)、大阪朝日新聞主筆となった。同年、清国へ渡り、陸軍の意向により有力な排日主義者・張之洞と何度も会談し、その結果、清国側からわが国へ視察団・留学生の派遣が行われることとなった。その後、明治32年(1899年)から三年間、天囚は清国に留学している。 清国から帰国後、明治40年(1907年)から、忘れ去られようとしていた儒者たちの業績を顕彰することをライフワークとして膨大な連載を始めた。 明治43年(1910年)、大阪懐徳堂(中井履軒ゆかりの塾)の再興に尽力し、『懐徳堂考』を著した。大正5年(1916年)、懐徳堂が復興されると、理事兼講師に就任。この年、京都帝国大学へも講師として出講した。大正9年(1920年)、文学博士。 大正10年(1921年)、宮内省御用掛となり、上京。大正12年(1923年)の関東大震災に際しての「国民精神作興の詔書」は、天囚の筆に成るといわれる。 大正13年(1924年)死去。 | 2005年3月27日公開。 |