日本漢文の世界


紀宕陰・息軒二先生事語釈

鹽谷(しほのや)宕陰(たういん)

塩谷宕陰(1809-1867)は、松崎慊堂門下の漢学者で、昌平黌教授。名文家として有名。

安井(やすい)息軒(そつけん)

安井息軒(1799-1876)も、松崎慊堂門下の漢学者で、朱子学派ではない古学派の学者として、初めて昌平黌教授になった。『管子纂詁』(漢文体系所収)などの考証は、現在でも高い評価を得ている。 

松崎(まつざき)慊堂(かうだう)

松崎慊堂(1771-1844)は、狩谷棭斎、山梨稲川らと並ぶ考証学者で、石経学、説文学なども研究した。門下には、安井息軒、塩谷宕陰ら俊秀が輩出した。 

學殖(がくしよく)

学問の累積があること。

贍敏(せんびん)

「敏贍」とも。機転が利いて、表現がうまいこと。

岩崎(いはさき)()

三菱財閥の創始者である岩崎家のこと。ここでは、静嘉堂文庫の設立者である岩崎弥之助(いわさき・やのすけ、1851-1908)、その子息で継承者の岩崎小弥太(いわさき・こやた、1879-1945)を指す。 

静嘉堂(せいかだう)文庫(ぶんこ)

三菱会社の社長であった岩崎弥之助が明治25年頃、恩師・重野成斎博士の修史事業を援助することを当初の目的として設立した文庫。明治40年、清国屈指の蔵書家・陸心源の蔵書を購入してから、世界屈指の文庫となった。関東大震災後の大正14年、世田谷区岡本に鉄筋コンクリート造の新文庫が建設された。 

慊堂(かうだう)日記(につき)

『慊堂日暦』ともいう。当時の文学の批評や、事件の記録など、非常に広範な内容にわたる日記で、約20年分が現存しており、これを読むと、当時の学界の様子がよく分かる。平凡社・東洋文庫に訓訳版が所収(全6巻)。 

藏有(ざういう)

所蔵していること。

塗抹(とまつ)

筆にまかせて自由に書画を書くこと。

墨蹟(ぼくせき)

本来墨で書いた真筆という意味だが、ここでは拓本など書写の手本のこと。 

臨摹(りんも)

手本のとおりに書写すること。「臨」は手本を傍らに置いて真似をすることで、「摹」は手本の上に紙を置いてその上から写し書きをすること。いずれも書道の練習法である。 

各體(かくたい)

ここでは漢字の五体、すなわち楷書・行書・草書・隷書・篆書。

遒麗(しうれい)

書法が豪放で、味わい深いこと。「跌宕遒麗」とも。

生平(せいへい)

「平生」と同じ。ふだん。平時。

流傳(るでん)

広く世間に伝播すること。 

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『感懐』という詩。以下に全篇を掲げる。(天囚の引用は幾分不正確なところがある。)

感懐
腰間秋水可刺虎
不道好文恥学武
小字呼甲厳君意
何時能報桑弧志
軽甲一聯蔵在家
百金擬買獅子花
恨殺漢家狄博士
将他頭顱供一薙
千載可心負米人
南山孤竹貫蒼旻
仮有腐遷筆如電
不願死編儒林伝

(訓読と略解)
感懐
腰間(ようかん)の秋水(しゅうすい=刀)虎を刺す可し(=いつも磨いて役に立つようにしてある)
道(い)わず文を好んで武を学ぶを恥ずと(=文武二道を努める意)
小字(しょうじ=幼名)甲と呼ぶ厳君(げんくん=父)の意(甲蔵という幼名は、文武二道を励めと父上がつけてくれたものだ)
何(いず)れの時か能(よ)く報いん桑弧(そうこ)の志(=父上が自分に対して抱いた四方雄飛の希望に、何時の日か応えたい)
軽甲(けいこう)一聯(いちれん)、蔵して家に在り
百金買わんと擬す獅子花(ししか=唐玄宗の名馬の名、刀や甲冑はあるから、あとは名馬だけだ)
恨殺(こんさつ)す(=うらめしい)漢家の狄博士(てきはくし=匈奴に国を売った漢代の売国奴の名)
他(かれ)が頭顱(とうろ)を将(もっ)て一薙(いっし)に供せん(=一刀のもとに奸漢の頭を切って落としてやる=攘夷の志)
千載(せんざい)負米(ふべい)の人(=孔子の弟子・子路のこと。孝養・勇気の人)を心とす可し
南山の孤竹(こちく)蒼旻(そうびん=青空)を貫く(=子路は南山の竹で武器を作ると言った)
仮(たと)い腐遷(ふせん=腐刑に処せられた司馬遷)の筆、電(でん)の如き有るとも(=司馬遷のような優れた歴史家が自分の伝記を書いてくれるとしても)
願わず、死して儒林伝に編せらるるを(=学者として名をなすことは願わない。)

儒林傳(じゆりんでん)

学者の伝記ということ。史書には「儒林伝」として、学者の伝記を載せるのが常である。ここに載るということは、つまり学者として有名になるということ。

輕甲(けいかふ)一聯(いちれん)

輕甲(甲冑)を一聯(ひとかさね)。 

(ざう)して(いへ)()

家伝来の甲冑を、大切に保存してある、という意。 

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自負心が強く、人に屈しないこと。 

臨池(りんち)

書道を学ぶこと。昔、東漢の張芝は、池のそばに住んでおり、書道の練習に熱心のあまり、家中の布が文字だらけになると、池で洗って白くしたので、池の水が次第に黒く染まってしまったという故事に基づく。 

屑屑(せつせつ)

努めて怠らないこと。 

塾長(じゆくちやう)

塾長とは、塾頭ともいい、私塾での学生の指導役。

一法書(いちはふしよ)

「法書」とは、書道の手本とするために、名人の筆跡を石摺りにした折本。「法帖」ともいう。『淳化閣帖』などが有名。 

付與(ふよ)

手渡すこと。

師訓(しくん)

師の教え。

服膺(ふくよう)

心の中にとどめて忘れないこと。

(けい)(をさ)

種種の考証に基づき、古代文献のテキストクリティークを行うこと。

兀兀(ごつごつ)

一心に取り組んで、休まない様子。

(あぶら)(もつ)(ひる)()

韓愈の『進学解』に「焚膏油以繼晷」と見えるのによる。つまり、昼はひねもす勉強し、その後夜になれば、油を焚いて明るくして、なおも勉強を続けるということ。「晷」は、正確にいうと「日光」のこと。

工拙(こうせつ)

上手と下手。巧拙。

別手(べつしゆ)

ここでは、別の書き手という意。

2005年3月27日公開。