これは、のちに「明治の翻訳王」と呼ばれる森田思軒が、郵便報知新聞の駆け出し記者のときに、先輩の政治記者・藤田茂吉(号は鳴鶴)の著書『文明東漸史外篇』(明治17年刊行)に寄せた序文です。
思軒居士は、明治15年、慶応義塾時代の師であった矢野龍渓を頼って上京し、矢野が経営する郵便報知新聞社に入社しました。矢野は、彼の漢文の才能を見込み、自身の著書『経国美談』の頭評(欄外上段の批評)と後序を書かせました。『経国美談』はベストセラーとなり、それとともに思軒の漢文の評も大評判となりました。当時、思軒居士の漢文を読んだ人人は、彼を老大家だと思ったそうです。24歳の若者が書いたものだとは、誰も想像できない高度な文章だったからです。
藤田茂吉の『文明東漸史』は、内篇と外篇に分けられ、内篇は西洋人が日本へ来たはじめ、つまり種子島にポルトガル人が来たときのことから説き起こし、渡辺崋山・高野長英の二人の事跡を顕彰しています。外篇はこの二人の伝記と二人の著作を収録しています。藤田の顕彰によって、この二人の事跡は世に知られるようになり、二人の著作も一般に読めるものとなったのです。(藤田の『文明東漸史』は、筑摩書房の『明治文学全集77』に内篇のみが収録されています。外篇は希覯本となっているようです。)
今日から見ると、藤田の『文明東漸史』には「モリソン号事件」の「モリソン」(船名)を人名と誤るなどの事実誤認もありますが、この書は卓越した史論として、当時名声を博し、長く読み継がれました。明治17年当時、自由民権運動が失速する中で、国家の弾圧に負けずに信念を貫いた二人の生涯を顕彰することは、藤田自身の決意表明でもありました。
思軒居士は、栗本匏庵、高雲外、犬養木堂という錚々たる先輩らとともに、この書の全編にわたって漢文で評を書き、さらに外篇の序文を書きました。
思軒居士の漢文は、秦漢の古文を模した高度なものです。思軒は漢文の素養を活かして、のちに稠密体と呼ばれる漢文訓読を主体とした翻訳文体を完成し、一世を風靡しました。ユゴーを初めて翻訳したのは、彼でした。またヴェルヌ作品の翻訳も人気を博しました。明治の翻訳文学は思軒居士をぬきにしては語れません。彼の翻訳は、『明治翻訳文学全集』(大空社)により、ほぼすべてが読めるようになりました。これにともない、彼の文学に関する研究も少しずつ増えているようです。
しかし、彼の翻訳の原点は漢文です。このたび、思軒居士の漢文作品を紹介できることは、私にとって大きな喜びです。思軒居士が明治文学界の先駆者として、さらに顕彰されることを念願しています。
2007年11月11日公開。