姓・号 | 森田 思軒(もりた しけん) |
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生没年(享年) | 文久元年(1861)-明治30年(1897) (37歳) |
諱(いみな) | 文蔵(ぶんぞう) |
字(あざな) | |
通称 | |
雅号 | 思軒(しけん)、埜客(やきゃく)、羊角山人(ようかくさんじん)、白蓮庵主人(びゃくれんあんしゅじん) 等。 |
謚(おくりな) | |
出身地 | 備中(岡山県)笠岡 |
師の名 | 矢野龍渓、坂田警軒 |
官職等 | 郵便報知新聞記者、萬朝報社員 |
代表的著作 |
『随見録』(ユゴー原著の訳) 『探偵ユーベル』(ユゴー原著の訳) 『クラウド』(ユゴー原著の訳) 『懐旧』(ユゴー原著の訳) 『死刑前の六時間』(ユゴー原著の訳) 『牢帰り』(ディケンズ原著の訳) 『間一髪』(ポー原著の訳) 『十五少年』(ヴェルヌ原著の訳、岩波文庫にも収録。) 『頼山陽及其時代』 |
肖像: | |
伝記: 思軒は、備中(岡山県)笠岡の裕福な商家に生まれた。慶応義塾大阪分校で矢野龍渓に師事し、龍渓の上京にしたがって上京し、慶応義塾本校で英文学を学んだが、中途退学し帰郷した。その後、岡山の興譲館に入り、坂田警軒に師事して漢学を修めた。 明治15年、再び上京して、矢野龍渓の経営する郵便報知新聞に入社。明治17年、師・矢野龍渓の著書『経国美談』に漢文の頭評と後序を書いて評判になり、世間に思軒の名が知られるようになった。同じ年、先輩記者であった藤田鳴鶴の『文明東漸史』にも漢文の頭評を書き、外篇の序を書いている。 明治18年、清国へ特派され、「訪事日録」「北京紀行」などの紀行文を報知新聞に掲載。同年、欧米視察中の矢野龍渓に呼ばれ、通信事務担当として欧米巡遊に同行し、「龍動(ロンドン)通信」「回船記要」などを発表した。この洋行中に購入した多くの文学書が後の翻訳に生かされている。 明治19年、矢野龍渓は、報知新聞の改革に着手し、文芸欄「報知叢談」を設け、思軒らに翻訳作品等の発表を競わせた。思軒は、ジュール・ベルヌ原作の『鉄世界』、『瞽使者』等を訳載し、翻訳文学者としての名声を勝ち得た。また、報知新聞社と友好関係にあった徳富蘇峰の「国民之友」に、ビクトル・ユゴー原作の『探偵ユーベル』、『クラウド』、『懐旧』等を発表し、これがわが国におけるユゴー紹介の嚆矢となった。また、思軒は報知新聞編集長として辣腕を振るった。 明治24年、報知新聞が瓦解の危機に瀕したとき、思軒は門下生の原抱一庵、村上浪六らの筆の力を結集し、報知新聞を文学新聞に改造したが、年末突然辞職している。藤田鳴鶴が実権を握り、思軒が編集長として思いのまま紙面づくりをすることができなくなったためといわれている。 明治24年、「国会新聞」に客員として入社し、同28年の廃刊まで社員であった。この間、同紙のほか、「太陽」や「少年世界」等にも執筆した。明治29年「少年世界」に発表したジュール・ヴェルヌ原作の『十五少年』は、名訳として後に岩波文庫にも入り、読みつがれた。 明治26年、思軒は山路愛山の『頼襄を論ず』に触発され、「国民の友」に『山陽論に就いて』の連載を開始し、明治30年に没するまで山陽論を書き続けた。これらは彼の没後、徳富蘇峰によって『頼山陽及其時代』として一冊にまとめられた。思軒の評論家としての才能は、この書において見るべきである。 明治29年、思軒は、黒岩涙香の「萬朝報」に、月給百円という破格の高給で迎えらた。しかし、翼明治30年、黒岩涙香宅へ花札を引きに行ったあと、腸カタルを発病し、腹膜炎を併発して死去。享年37。 | 2007年11月11日公開。 |