日本漢文の世界


楠左衛門尉髻塚碑現代語訳

楠木正行の髻塚(もとどりづか)の碑

森田 節斎
 正平三年(1348年)の正月、後村上天皇は吉野に滞在されていた。このとき高師直(こうのもろなお)率いる賊軍が大挙して吉野へ攻め込んだ。左衛門尉(さえもんのじょう=官名)・楠木正行(くすのき・まさつら)は、一族郎党百四十三人を従え、後村上天皇のもとに参内した。お暇ごいを申し上げたあと、後醍醐天皇の陵(みささぎ)にもお別れをした。そして、如意輪寺の境内で、おのおの髻(もとどり)を切り落とし、壁に姓名を書きつけた。それから戦場へ赴き戦いに敗れて、一族郎党全員が戦死したのである。
 慶応元年(1865年)の秋、私は備中(岡山)から大和(奈良)へ帰郷した。談山に登り、吉野に詣でようかと思っていたところへ、会津田正臣君がやって来た。正行公の髻塚を顕彰する石碑を建立したいから、碑文を書いてほしいというのだ。私は言った。
「ちょうど談山と吉野山に行こうと思っていたところだ。帰ってから文を作るから、しばらく待ってくれないか。」
 はじめに談山に登り、藤原鎌足公をまつる談山神社に参詣した。敷地は広く、建物も立派で、我知らず畏敬の念が起きてくる。ところがその後、吉野山に登って正行公の髻を埋めた場所を探したが、その場所は荒れ果てて、草に埋もれていた。そばを通る人たちも、そこが正行公の遺跡とは知らないようすだ。
 私は、その場所を行ったり来たりしながら、いつまでも立ち去ることができなかった。涙がポタポタとあふれ落ちた。私はつぶやいた。
「正行公も鎌足公も、同じように朝廷につくした忠臣だ。鎌足公は一撃で悪人を倒して朝廷の危機を救ったから、最高の官位にのぼり、子孫も繁栄した。そればかりか、今も神社にまつられている。一方、正行公は国賊に敗れて戦死した。南朝はその後振るわず、子孫も死に絶えてしまった。そして、その最期の遺跡さえも、埋もれてしまっている。同じ忠臣なのに、この差は何としたことか。」
 しかし、私は涙をぬぐった。
「運不運の差はあっても、この二人の功績は同じではないか。鎌足公の大化の改新は、天皇家の危機を救った偉業であった。正成・正行父子は、敗れたとはいえ、節操を貫き通し、道徳を不朽に伝えた。この徳は日月にも比すべきものである。だから、鎌足公のほうが勝っているとは言いきれない。運不運の差はあっても、二人の功績は同じである。」
 私が帰ると、正臣君が碑文の催促に来たので、鎌足公と正行公の功績は同じだという話をし、それにこう付け加えた。
「いま欧米の蛮人どもが、好き勝手な振る舞いをして、朝廷を悩ませ奉っている。国士たるもの、国家のために力を尽くす時は、今をおいてない。はかりごとが成就したならば、鎌足公のように後世まで祀られもしよう。しかし、たとい失敗したとしても、正行公のように節義に死して、名を歴史に刻めるではないか。男児の本懐、これにすぎるものはない。」
 正臣君はよろこんで立ち上がった。
「その言葉で、正行公の髻塚を顕彰できるではありませんか。」
 そこで、私は碑文を書いて正臣君に渡した。
 正臣君は、字(あざな)は仲相(ちゅうしょう)、通称は監物(けんもつ)と言い、代代紀伊藩に仕えている。楠正成公十八世の子孫である。
 慶応元年十月、大和(奈良)の森田益が撰文した。

2002年8月31日公開。