楠正行(くすのき・まさつら、?-1348)のこと。正行は、楠正成の嫡男。小楠公と呼ばれている。父正成との桜井での決別のあと、父の遺志をついで、南朝の復興につくしたが、四条畷の戦いで、一族郎党百四十三人とともに討ち死にした。左衛門尉は朝廷(この場合は南朝)の官職。
髻(後出)を埋めた塚。
正平は南朝の年号。西暦1348年。
天皇(ここでは後村上天皇)のこと。もともと天子の車を意味することばだが、天子そのひとを指すようになった。
奈良県の吉野。
高師直(?-1351)は、足利尊氏の重臣。足利幕府の設立や南朝との戦いで大功をたてたが、のち尊氏の弟直義との抗争に敗れて殺された。
外敵がせめてくること。
一族と家来。一族郎党。
天皇の行幸中における仮御所。この意味のときは、「行」の字を唐音で「アン」と読むことになっている。
天皇(ここでは後村上天皇)のもとを辞去する。
まげ。頭の上に髪を束ねたところ。髻を切ることは、死を覚悟していることを表している。「髻」の字音は「ケイ(jì)」。
「きのとうし」の年。ここでは、慶応元年(1865年)。
節齋の諱(いみな=本名)。漢文では、自分の本名を書くと、へりくだる意になる。
旧国名。現在の岡山県西部。
奈良県桜井市にある多武峰(とうのみね)の別称。「たんざん」という読み方もある。
吉野山(よしのやま)のこと。
他の土地へ旅行して風景などを楽しむこと。
この文章の最後に紹介がある。楠正成十八世の子孫で、代代紀州藩に仕えていた。
石碑のこと。
表彰する。つまり、ひろく世間にしらせること。
前出の談山と芳山。
男子の尊称。「貴殿」。
藤原鎌足(614-669)。大織冠は、大化の改新後に設けられた最高官位で、初めて授けられたのは、藤原鎌足である。ゆえに単に「大織冠」といえば藤原鎌足を指す。
祖先の霊をまつる「たまや」のこと。ここでは藤原鎌足をまつる談山神社のこと。
ひろびろとして見通しがきくこと。
社殿(神社の建物)のこと。
「瘞(エイ yì)」は埋めること。
ここでは、おとずれること。
はびこる草とさびしい煙。荒れ果てた古跡の形容として使われることば。
(感慨無量となって)首をたれて、行きつ戻りつすること。この文章が下敷きにした頼山陽の『日本外史』楠氏論にもこの表現が使われている。頼山陽は、桜井駅(楠父子訣別の地)が小村で、行き交う人人が遺跡であることにも気づかないのを見て、「低回して去ること能はず」と言っている。
さめざめと涙をながすようす。
涙がぽろぽろと落ちる。「涙」の字は「なんだ」と読み慣わしている。
忠誠をつくした臣下。
大悪人。藤原鎌足の殺した大悪人とは、蘇我入鹿のこと。
殺すこと。
太陽(天皇家にたとえる)が墜落しそうになっているのを、回復させた。これは大化の改新のことを指す。『日本外史』楠氏論にもある表現。
非常に長いあいだ。のちのちまで。
まつられて供養を受けること。
左伝の語で、南の国(ここでは南朝)の勢力がふるわないこと。『日本外史』楠氏論にもある表現。
前出の、大化の改新の功績。
きらびやかで美しい。あきらかに輝いている。
人の守るべき道徳。三綱(君臣・父子・夫婦の道)、五常(仁・義・礼・智・信)。
きわまりのないこと。ここでは「永久」というくらいの意味。
「野蛮人」。ここでは当時わが国にむりやり開国させた欧米諸国を指す。
たけり狂って、あばれまわること。
天皇のこと。このときは、孝明天皇。
宵衣旰食の略。あけがたに起きて起きて衣服を着け、日が暮れてから食事をするという意味。天皇が政治に心血を注がれること。
大切な時期という意味のときは、「とき」と読む。諸葛亮の「前出師表」に「危急存亡の秋(とき)なり」とある。
もともと書物のことだが、「歴史」という意味で用いられる。「名を竹帛に垂る」とは、歴史に名を残すこと。
ますらお。意志の強い立派な男のこと。
よろこんで、おどり上がる様子。
代代といういみのときは、「よよ」と訓じる。
紀州藩のこと。
楠正成(?-1336)。この文章に出てくる楠正行の父親。後醍醐天皇を助けて建武の中興を実現した。中将は朝廷の官職。
子孫。
元年。
2001年8月5日公開。