楠木正成公の嫡男、楠木正行(くすのき・まさつら)の髻塚(もとどりづか)に建てた石碑の文章です。
死を決して戦いに臨むとき、武士は髻(もとどり=髪を束ねてくくった部分)を短刀で切り落とし、ザンバラ髪で戦いました。正行も四条畷の戦いに臨み、一族郎等143人と共に髻を切り落としました。髻塚は、その髻を埋めたところです。
節斎先生は、この文を草するにあたり、実際に楠木正行の髻塚を見に行きました。ところが、草がぼうぼうと生え茂り、髻塚はなかなか見つかりません。同じく皇室に忠誠をつくした藤原鎌足が広大な神社に祀られているのにくらべれば、何という違いでしょうか。節斎先生は涙にくれて、立ち去ることができなくなってしまいました。
この文章は、『日本外史』の有名な楠氏論を下敷きにしています。楠氏論では、作者頼山陽が、楠父子訣別の地である桜井駅を見にいきます。ところが、そこは一小村にすぎず、道行くひとびとは誰も楠父子のこと
を知りません。山陽先生もそこから立ち去ることができなくなってしまいます。
この文章は、当時志士たちに愛読されていた外史楠氏論を下敷きにすることにより、深い余韻を引き出すことに成功しているのです。
2001年8月5日公開。