森田 節齋
正平三年正月、車駕芳野に在り。賊將高師直、大擧して來寇す。楠左衛門尉、其の族黨百四十三人と行宮に詣る。陛辭し畢り、後醍醐帝の陵に拜訣し、如意輪寺に入る。各髻を截ち、姓名を壁に題す。然る後進み戦ひ、克たずして皆之に死せり。
今茲乙丑の秋、益備中より郷に歸り、將に談山に登り、遂に芳山に遊ばんとす。會津田正臣、石を建て以て公の髻塚を表せんと欲し、來りて文を益に請ふ。益曰く、「余且に二山に遊ばんとす。子姑く之を待て」と。
已にして談山に登り、藤原大織冠の廟に謁す。規模宏敞、殿宇壮麗、人をして敬を起さしむ。芳山に登るに及んで、首めて其の所謂髻を瘞めし處を問へば、蔓草寒煙の中に在り。過ぐる者、或は其の遺跡爲るを知らず。
是に於て、益低囘して去ること能はず。潸然として涙下る。曰く、「左衛門尉と大織冠とは、皆王朝の藎臣也。大織冠は大憝を一撃に斃し、天日を將に墜ちんとするするに囘し、位人臣を極め、子孫蔓衍して、百世に廟食す。左衛門尉は則ち賊を討ちて克たず、身を以て難に殉ず。南風競はず、宗族殆ど盡く。今其の遺跡を求めんと欲すれども、而も遽に得可らず。嗚呼、何ぞ其の幸不幸の異なる也。」と。
已にして涙を拭ひて以爲へらく、「其の幸不幸は異なりと雖も、其の功は未だ嘗て同じからずんばあらざる也。夫れ大織冠囘天の績は偉なり。然れども之を左衛門尉父子の大節彪炳として、日月と竝び懸り、綱常を無窮に存する者に比すれば、未だ其の孰れか愈れるを知らざる也。故に曰く、其の幸不幸は異なりと雖も、其の功は未だ嘗て同じからずんばあらざる也。」と。
益既に歸る。正臣復た來り促す。乃ち前言を擧げて之を告ぐ。且つ曰く、「方今夷狄猖獗にして、九重宵旰したまふ。士力を國家に致すの秋也。事成らば則ち大織冠と爲り、百世に廟食し、成らざれば則ち左衛門尉と爲りて節に死し、名を竹帛に垂れん。豈に大丈夫平日の至願に非ず乎。」と。正臣躍然として起ちて曰く、「是れ以て左衛門尉が髻塚を表す可し。」と。遂に書して以て之に與ふ。
正臣字は仲相、監物と稱し、世紀藩に仕ふ。楠中將十八世の裔也。
慶應紀元十月、大和の森田益撰す。
2001年8月5日公開。