日本漢文の世界


本因坊秀榮傳解説

 明治維新後、幕府が保護してきた諸芸能は後ろ盾を失って危機に立たされましたが、囲碁も例外ではありませんでした。明治の囲碁界は激動の時代でした。本因坊秀栄師はその時代を生き抜き、囲碁を守り通した人です。
 江戸時代、囲碁の家元には本因坊・安井・井上・林の四家がありました。その中でも本因坊家は名門でした。しかし、明治維新後、囲碁界に革新運動が起こり、本因坊家の門人であった村瀬秀甫・中川亀三郎らが中心となって明治12年(1879年)「方円社」が組織されました。
 秀栄師は、当時林家に養子に入り、当主となっていました。方円社結成時には、家元側として参加しましたが、家元の権威を認めない方円社のやり方に憤り、すぐに脱会しています。その後、秀栄師は本因坊家に復籍して第17世本因坊となり、方円社との対決を模索します。しかし、後藤象二郎伯爵、井上毅子爵ら有力者が仲介したため、やむなく村瀬秀甫に本因坊の名跡を譲りました。当時、囲碁の実力は村瀬のほうが上だったのです。ところが村瀬はその直後に病死し、和解はたちまち崩れました。秀栄師は本因坊を再襲し、方円社は以後衰退へ向かいます。田村保寿・雁金準一ら、方円社出身の実力者も、機を見て秀栄師の門に馳せ参じました。明治38年(1905年)、秀栄師は「日本囲棋会」を創立し、翌年名人位に就きます。宿願であった方円社打倒と本因坊の権威回復は、ほぼ達成されたのです。 しかしその翌・明治40年(1907年)に惜しくも病死しました。
 秀栄師は門下第一の実力者・田村保寿を感情的に嫌い、後継者を定めませんでした。そのため、雁金準一と田村との間に本因坊継承争いが起きます。しかし結局、秀栄師の弟・秀元師(第16世・第20世本因坊)が田村を後継者と定めたことにより、この問題は解決を見ました。田村保寿は第21世本因坊秀哉(しゅうさい)となり、後に名人となります。秀哉名人のもとで、ついに囲碁会の統一が成就し、大正13年(1924年)、「日本棋院」が誕生します。
 秀哉名人は、昭和13年(1938年)の引退に際し、本因坊の名跡を日本棋院に付与しました。かくて「本因坊」は家元としての歴史的役割を終わり、現在みるごとくタイトル戦として戦われるようになったのです。
 晩香先生のこの文章は、秀栄師の激闘については概略だけしか記していません。それらは、当時は誰もがよく知っていた事柄なので、概略で十分だったのです。それよりも秀栄師の囲碁の本質に迫ることに努めています。田村保寿(のちの本因坊秀哉名人)ら高弟から直接聞いた逸話や、晩香先生自身が秀栄師からじきじきの指導を受けた経験は、この文章をたいへん興味深いものにしています。それらはごく些細な話ですが、そこから却って秀栄師の囲碁の真面目が明らかになって来るのです。このあたりの文章の妙を、よく味わってください。
 
※筑摩書房のPR誌『ちくま』に、団鬼六氏が『落日の譜 雁金準一物語』という小説を連載されています。これは、囲碁界の鬼才・雁金準一の生涯を軸として、明治・大正の囲碁界の激動を活写したものです。本因坊秀栄師はキー・パーソンとして毎回登場しています。当時の囲碁界の激動に興味を持たれた方は、ぜひこの小説をお読みください。( ※※2004年8月号掲載の、本因坊継承争いの発端のところまでの話で、『ちくま』の連載が突然終了してしまいました。2005年初めに単行本が発売されるまで、続きが読めません。待ち遠しいですね。11月3日追記。)(※※2012年12月、ようやく筑摩書房から単行本が刊行されました。作者が2011年に急逝されたため、未完のままの刊行となりました。2012年12月16日追記。)

2004年6月27日公開。同年11月3日追記。2012年12月16日追記。