日本漢文の世界


鍛工助弘傳現代語訳

刀工助広の伝記

菊池 三渓
 刀工助広は「越前守(えちぜんのかみ)」という称号を用いた。初めの名は直助といった。その作品は、刀であれ槍であれ矛であれ、鋭く堅く、まさに「名刀、玉を切ること泥のごとし」とのたとえどおりであった。そのため助広の刀は「新刀正宗」と称せられた。ちなみに正宗とは昔の名工で、刀鍛冶として著名な人である。
 赤穂の城主、浅野氏の家臣に、小野寺十内という人がいた。十内はとても貧乏だった。ある日、同僚たちと友人宅で集まりがあった。おのおの所持の刀の真贋を品評しあったのである。藩の老中・大野九郎兵衛もその席にいた。大野は刀の産地を正確に言い当てることができた。
「これは相模物だな。」
「これは備前物だ。」
 百に一つの誤りもない。その場にいた人たちは、大野の鑑定眼に深く感服した。
 最後に十内の番になった。十内の刀はなまくらで、さやは剥げていた。大野は一見して嘲笑し、「武士の風上にもおけん奴だ」と口汚く罵った。十内は心中いたく憤激したが、つとめて平静をよそおった。
 当時、直助は十内の下男であった。直助は、この品評会の模様を壁を隔てて聞いていたが、大野の無礼には歯ぎしりして腹を立てた。
「あのやろう、よくもご主人様に恥をかかせたな。この恨みは、命にかえても必ずはらす。」
 直助は主人十内に、うそを言って暇乞いをした。
「どうか故郷に帰らせてください。」
 十内はその願いを聞き入れてやった。
  そこで、直助は旅支度をして出発し、途中野宿をして苦労しながら、やっと大阪の片町に到着した。そして、刀工・近江の家を訪ねた。
 近江は攝津の国の名工で、「神刀鍛冶」といわれていた。直助が近江の家の前をうろうろしていると、近江の家の者が怪しんでどこから来たのかと問いかけた。彼は言った。
「お願いしたいことがございます。お師匠さまにお目通りして、直接お願いしとうございます。」
 家の者は近江に直助のことを話した。そこで、近江は直助を呼び入れた。直助は弟子入りを願い出た。直助のことばは真剣そのもので、なんとしても刀工になりたいという思いがあふれていた。近江はその志を憐れんで、置いてやることにした。
 直助は仮の身分ながら、近江の家の下僕にしてもらい、仕事の合間に一途に刀工の技を磨いた。槌の打ち方を真似て、トントンと音をたて、寝るときは枕をトントンとやり、食事の時は食器をトントンたたいて、夜通しやめようとしない。これには家中の者がまいってしまい、近江は毎日苦情を聞かされた。しかし、近江はそれにはとりあわず、直助の好きにさせておいた。かくして三年が過ぎるうちに、直助の技術はずいぶんと進歩した。
 ある日、直助は落ち着いた様子で近江に語りかけた。
「お師匠さま、私はここに置いていただき、み教えを受けるようになりましてから、はや三年になります。ずいぶんと腕もあがりましたように思います。できましたら、お師匠さまのお力添えをいただきまして、刀を一本鍛えてみとうございます。どうか私の願いをお許しください。」
近江は静かにうなずいた。
 直助はたいへん喜んで、七日間斎戒沐浴し、一振りの刀を鍛えあげた。近江も槌を取って手伝った。刀ができあがって砥石にかけると、まるで水面のような神秘的な輝きを放った。昔の名工でも、これほどの物は作れぬほどの出来映えである。近江は感歎し、直助を娘と結婚させて後継ぎとし、自分の姓を名乗らせた。かくして直助は津田越前守助広と名乗ることになった。
 助広は、自ら鍛えた刀を携えて、当時京都にいた旧主・小野寺十内を訪ねた。助弘は、刀を十内に贈ると、泣いて言った。
「この刀は、私のまごころの結晶でございます。ご主人様、この刀で昔の恥をすすいでください。そうすれば私の長年の願いもむくわれます。」
 十内は感極まり、居住まいを正して助広のまごころに感謝した。その日から十内は、その刀を常に携行して、一時も身を離すことはなかった。
 それから間もなく、赤穂義士の討ち入りがあった。十内はその夜、この刀で主君の仇・吉良家の門を切り開け、数人の敵を殺した。その後、十内は同盟の義士たちと同じく切腹を申し付けられたので、この刀は義士の菩提寺たる泉岳寺の遺物となった。赤穂義士の討ち入りから百年以上になるが、この刀はまるでたった今できあがって砥石にかけたばかりであるかのように、冷たい光を放っている。
 思うに、名のある芸人や職人はみな、まごころを貫き、その上に修練をつみかさねた人たちだ。刀工助広は、とるに足らない身分は低い男にすぎない。しかし、主人の恥をすすぐためにまごころを尽くし、精神を集中した。そして鍛え上げた天下無双の名刀は、後日、赤穂義士の義挙に役立つこととなる。鉄のような強い意志を持つ人でなければ、このような快刀を作ることはできないであろう。

2002年8月31日公開。