長谷川君父子の瘞髪の碑
龜山 節宇
嗚呼世運益開け、而して人事愈改まる。人事愈改まれば、則ち前賢・後哲、一揆に出づるを得ず。豈に啻に前賢・後哲のみならん哉。父は之を其の子に強ふるを得ず、子は之を其の父に爭ふを得ざる也。蓋し各其の改むる所の事に處して、而も其の跡反つて相類する者は、吾が長谷川君父子の若き是也。
君の名は鍛冶馬。考の名は綱一。妣は長谷川氏。天保辛卯を以て姫路に生る。安政戊午、考の後を承け、家禄八十石を襲ふ。君弱冠にして讀書に志し、而して其の長技は無邊槍法に在り。別に口俸を賜り、技を諸藩に試る。既に家を嗣ぎ、又筑後の柳河に遊び、加藤氏の塾に就く。加藤氏は、槍技を以て鎭西に名ある者也。是の時に當り、外國の交際未だ開けず。諸藩競つて武藝の士を出し、以て他日邊圉の用に供せんと欲す。君は其の選也。君塾に在ること一年、技大いに進む。猶ほ奮ひて身を顧みず、以て藩主に報ぜんと欲す。明年己未七月廿九日、不幸疫に罹つて歿す。春秋廿九。同遊の諸子の塾に在る者、相與に龍德院の境内に客葬し、遺髪を家に送る。乃ち諸を城北誓光寺の先塋の次に瘞め、以て魂を招く。君奥村氏に娶り、二女を生む。而して男無し。君の纊を屬くる也、親戚相議して、久保機外の次男・己酉二を養ひて嗣と爲し、配するに其の長女を以てす。是れ雉郎君と爲す。
君は幼名己酉二。後雉郎と更む。父は即ち機外。妣は渡邊氏。嘉永己酉を以て姫路に生る。安政己未、鍛冶馬君の後を承く。而して家禄は其の十石を削り、七十石を賜ふ。蓋し藩例なりと云ふ。君幼にして穎悟、已に長じて黌に入り、專ら支那學を修め、常に余に就いて正せり。慶應丁卯、君を遣して西洋の兵法を東京及び横濱に學ばしむ。明治戊辰、姫路に歸る。尋で浪華に赴き英國普通の學を修むること一年。是の時に當り、朝政一新し、外國の交際大いに開く。始めて大學南校を東京に設け、各國の教師を聘して、以て生徒を教ふ。君も亦校に入り、昕夕刻苦して毫も懈らず。庚午八月三日、君官選を以て米國留學生と爲る。而して發するに日有り。家に還り別を父兄・諸友に告ぐ。舊藩知事・從四位酒井公も亦厚く之に資す。九月廿九日、米國の郵舶に駕して、我が横濱港を發し、閏十月四日、彼の紐約爾格府に達す。府を距たること凡そ七十里、一都府有り、持羅と曰ふ。以て其の中校教師・褘邇遜氏に託し、其の家に就いて學ぶ。師懇懇として教授し、而して君孜孜として講求す。且つ彼の地の耆宿と、論議・問答して以て益を取る。是を以て其の業駸駸として止まず。蓋し上は以て朝旨を對揚せんと欲し、下は以て父母を辱めざらんことを願ふ。其の心を用ふること眞に苦し。明治辛未の夏、喀血の疾を發し、冬に至つて益劇しく、終に起たず。寔れ我が十一月七日也。春秋二十三。乃ち紐普倫或に客葬せり。君の疾に寢て自り、以て瞑するに至るまで、吾が華頂親王以下、諸搢紳及び生徒の彼の地に在る者、凡そ起居飲食及び殯歛の諸件、看護備具せり。而して其の最も心を盡し力を竭し、情誼骨肉に過る者は、同行の舊大垣藩士・松本莊一郎なりしと云ふ。彼の地の君を識れる者、惋惜して置かず。其の教師夫妻も、亦た君を視ること猶ほ其の子のごとく、自ら書を作つて之を父兄に寄せ、以て之を弔慰せり。其の四行を稱す。曰く潔行、曰く好學、曰く尊敬、曰く忠款。且つ其の墓を目して、非時の墓と曰ひ、其の夭折を悼める也。既にして遺髪家に至る。父兄・親戚相議し、父の遺髪を移して、合瘞せり。
僉泣いて曰く、「斯の父我が鎭西に死し、斯の子彼の絕域に歾す。内外・遠邇の異りは有りと雖も、然も皆其の父兄・親戚の手に死するを得ず。而して父兄・親戚も、亦皆其の壙に臨み其の窆するを視ることを得ず。其の視る可き者は、特だ一握の遺髪而已。悲しい哉。抑父は、我が武を以て彼に抗せんと欲し、子は、彼の文を以て我を助けんと欲す。而して兩ながら命を客土に隕せり。何ぞ其の事の相反して、而も其の跡の相類する也。蓋し亦時の然る耳。父をして今日に在らしめば、則ち固より當に其の子の爲す所を爲すべし。子をして曩時に在らしめば、則ち亦當に其の父の爲せし所を爲すべし。慈父・孝子と爲すを害げざる所以也。今其の遺髪を合瘞すれば、則ち魂は其れ來會せん乎。」と。
因つて石を厝きて其の繇を記さんことを謀り、文を余に徵す。余二君と、相識ること一日に非ず。以て辭す可き無し。顧ふに時運益開け、文字の變も、亦未だ知る可らざる也。然りと雖も、余の二君と相識れるは、特だ支那學に在り。是を以て今且く支那語を以て之を記せり。
君男無し。一女有れども、夭なり。蘆谷信志の弟・信綱を養ひて嗣と爲し、後を承けしめ、配するに長谷川氏を以てす。是より先、士禄一變し、君五十苞を食む。信綱之を襲ふ。
2004年3月7日公開。