日本漢文の世界

姓・号 龜山 節宇(かめやま せつう)
生没年(享年) 文政5年(1822年)―
明治32年(1899年) (78歳)
諱(いみな) 美和(よしかず)
字(あざな) 由之(ゆうし)
通称 敬佐(けいすけ)、源五右衛門(げんごえもん)、雲平(うんぺい)
雅号 節宇(せつう)、曳菴(えいあん)
謚(おくりな)  
出身地 姫路(兵庫県)
師の名 佐藤一斎(昌平黌)
官職等 姫路藩大監察、藩校好古堂教授
代表的著作 節宇遺稿(3冊)
肖像:

 龜山節宇 日本漢文の世界

伝記:

 節宇は、姫路藩士の家に生まれた。幼少のときに父を亡くし、天保14年(1843年)、22歳のとき兄・剛毅が亡くなり、亀山家の家督を相続した。
 嘉永4年(1851年)、昌平黌に遊学。昌平黌では会津藩の南摩羽峰(なんま・うほう)とともに詩文係を務め、重野成斎(しげの・せいさい)、岡鹿門(おか・ろくもん)らと切磋琢磨した。遊学中の嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航した時は、藩主の出陣に扈従した。昌平黌には3年間在学し、その後は江戸の藩邸で藩主侍読を勤めた。
 安政2年(1855年)、藩主に従って姫路に帰り、藩校好古堂の教授となる。文久元年(1861年)、抜擢されて、藩校教授兼任のまま、大監察となった。
 明治元年(1868年)、藩主は前将軍徳川慶喜公に従って江戸に在ったが、その留守中に朝廷の命を受けて備前藩の軍が姫路へ進軍し、景福寺に陣取った。節宇はこのとき交渉係として全権を託せられ、姫路藩は朝廷に帰順する意を伝えた。しかし、備前軍は姫路城福中門に迫り、発砲に及んだ。節宇は城から走りだして備前軍の責任者に面会し、違約を詰って抗議し、誠意を伝えて事なきを得た。
 明治4年(1871年)、すべての公職を退いて隠居し、私塾・久敬舎を設けて、子弟を教授した。明治17年(1884年)、講堂と塾舎を新築して観海講堂と称した。
 節宇は周囲から学徳を慕われ、「播磨聖人」と称せられた。
 明治32年(1899年)、78歳で没した。
2004年3月7日公開。

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