日本漢文の世界


長谷川君父子瘞髪碑解説

 幕末・明治初期は遊学・留学が盛んに行われたときでした。それはまさに流行でした。
 幕末の国内遊学としては、江戸幕府の官学であった、昌平黌(しょうへいこう)への遊学が有名です。ここへは幕府の旗本、御家人だけでなく、諸藩士から、浪人・庶民にいたるさまざまな階層の学生が集い、多くの人材が輩出しました。しかし、遊学の目的地は江戸だけには限られず、京都・大阪や、他藩などへと広がってゆきました。また、学ぶ対象も漢学以外に、医術・武術・洋学など、さまざまな分野に及びました。この文章に登場する長谷川鍛冶馬(はせがわ・かじま)の遊学も、武術習得のため他藩へ派遣されるというものでした。
 明治になると、海外留学が盛んになります。明治3年の長谷川雉郎(はせがわ・きじろう)の米国留学は、その流行の真っ只中のことでした。当時の留学生選別は「コネ」によるものも多く、修学内容も留学生各個人にまかされていました。そのため、留学後、大学へ入学するのに十分な学力のないものは、家庭教師についたり、中等学校に入学したりして、基礎的な勉強をしました。長谷川雉郎も、当地の中学教師ウィルソン氏の家にホームステイをして、このような基礎教育を受けたようです。
※拓殖大学外国語学部の塩崎智教授(日米文化交流史)のご教示により、長谷川雉郎は一緒に留学した、松本、目賀田とともに、ニューヨーク州トロイ(Troy)のトロイ・アカデミーで学んでいたことが分かりました。教師の家にホームステイして個人指導を受けただけでなく、学校にも通っていたわけです。(2007年12月1日追記)

 日本人留学生の中には目覚しい成績を上げて欧米人を驚かせる者もありましたが、中等教育のレベルで終わってしまう者や、自堕落な生活に陥る者も多かったといいます。そうした実情と、多額の費用を削減する必要から、明治政府は明治6年12月、官費留学生全員の帰国を命ずるにいたりました。この留学生整理の後では、真に卓越した学力を備えた者だけが、海外へ派遣されるようになったのです。
 長谷川雉郎は優秀な留学生であったようです。長谷川雉郎と同期の留学生である松本荘一郎は、のちにわが国の鉄道敷設にかかわり、大きな業績を残した人です。その松本が病床の雉郎を必死になって看護したのは、彼が雉郎の能力を高く評価していたからだと思います。しかし、死はすべての可能性を奪ってしまいました。
 この文章は、姫路藩儒・亀山節宇先生が、教え子父子の鎮魂のために書いたものです。この中で節宇先生が、漢学を「支那学」と呼び、漢文を「支那語」と呼んでいるのには興味を惹かれます。もちろん当時はまだ「sinology」の支那学はありませんでした。これは、漢学のことを洋学と対比して言ったものです。弟子の長谷川雉郎は洋学を学んだ人であるから、本来碑文も英語で書くべきだという意を含んでいるのです。しかしその後、節宇先生が予見したほどには、英語はわが国に根付きませんでした。今日でも英文の碑文などは、ほとんどありません。
 長谷川父子は、二人とも前途を嘱望された超エリートでありながら、志半ばで病に倒れ、客死しました。郷里の期待を一身に受け、力を尽くして勉学に励んだ教え子たちの不幸を、節宇先生自身いかに嘆かれたか。行間からそれが伝わってきます。節宇先生のこの文章がなかったら、彼らのことは後世に知られることもなく、歴史の片隅に埋もれてしまったことでしょう。彼らは、時代の子であるとともに、時代の犠牲でもあったのです。
 
※幕末の遊学、明治の留学についてお知りになりたい方は、石附実(いしづき・みのる)氏の名著『近代日本の海外留学史』(中公文庫)をお読みになることをお勧めします。この本はたいへんな力作で、巻末には幕末から明治初年までの海外留学者のリストまで掲載されています。リストの中には、長谷川雉郎の名もちゃんと出ておりました。

2004年3月7日公開。2007年12月1日一部追加。