日本漢文の世界


長谷川君父子瘞髪碑語釈

世運(せいうん)

世の盛衰や治乱の気運。

人事(じんじ)

社会一般のことがら。

一揆(いつき)

傾向などが一致していること。

(あと)

足跡。事跡。

(かう)

父親。

()

母親。母が長谷川氏ということは、父は養子であったと思われる。

天保(てんぽう)辛卯(しんばう)

辛卯は「かのと・う」。天保2年(1831年)。

姫路(ひめぢ)

現在の兵庫県姫路市。

安政(あんせい)戊午(ぼご)

戊午は「つちのえ・うま」。安政5年(1858年)。長谷川鍛冶馬は28歳。

(おそ)

受け継ぐ。世襲する。

弱冠(じやつくわん)

男子二十歳のこと。もう少し広く二十歳前後の年齢を指すこともある。 

長技(ちやうぎ)

得意とする技。

無邊槍法(むへんさうはふ)

無辺流の槍術。

口俸(こうほう)

家禄とは別に特別手当として貰う給金のこと。 

筑後(ちくご)

現在の福岡県南部。

柳河(やながは)

現在の福岡県柳川市。詩人・北原白秋の故郷として有名。

(あそ)

遊学すること。

鎭西(ちんぜい)

九州のこと。 

邊圉(へんぎよ)(よう)

辺境(国境)の防衛に役立つこと。 

己未(きび)

己未は「つちのと・ひつじ」。安政6年(1859年)。

龍德院(りゆうとくゐん)

北九州市にある龍徳寺のこと。

先塋(せんえい)

先祖の墓。

(わた)()

臨終の前の危篤状態。「纊(くわう)」は「わた(綿)」。むかしの中国の「礼」で、人が臨終するとき、綿を口に近づけ、息をしているかどうか確かめたことから。

()

後継ぎ。養子に入り後を継いだ。

嘉永(かえい)己酉(きいう)

己酉は「つちのと・とり」。嘉永2年(1849年)。

安政(あんせい)己未(きび)

前出。安政6年(1859年)。

藩例(はんれい)

藩のしきたり。

穎悟(えいご)

人に優れて聡明であること。

(くわう)

姫路の藩校、好古堂。

支那學(しながく)

漢学のこと。洋学と対比して言っている。sinologyの支那学は、このころはまだなかった。

慶應(けいおう)丁卯(ていばう)

丁卯は、「ひのと・う」。慶応3年(1867年)。

明治(めいぢ)戊辰(ぼしん)

戊辰は、「つちのえ・たつ」。明治元年(1868年)。

浪華(なには)

現在の大阪市。

朝政(てうせい)

朝廷の政治方針。

大學南校(だいがくなんかう)

明治2年(1869年)に設けられた学校。のちの東京大学の源流の一つとなった。

昕夕(きんせき)

朝晩。

庚午(かうご)

庚午は「かのえ・うま」。明治3年(1870年)。

官選(くわんせん)

政府に選ばれたということ。

(きう)(はん)知事(ちじ)

廃藩置県は明治4年(1871年)なので、明治3年(1870年)の時点では、旧藩主が藩知事の地位にあった。

酒井公(さかゐこう)

酒井忠邦(1854-1879)は、最後の姫路藩主。明治維新に際して前藩主・忠惇(ただとし)が新政府から官位・入京を停止し、蟄居を命じられたのにともない、親戚である上野(こうづけ)伊勢崎藩から迎えられた養子。当時15歳であったが、新政府には18歳と偽り報告した。明治元年十一月、姫路藩は新政府に対して「版籍奉還」を建言した。これにより新政府における姫路藩の地位は向上した。「版籍奉還」が実現したのは、翌明治二年である。明治4年の廃藩置県後、忠邦は東京へ出て、慶応義塾に入学した。同年12月にはアメリカへ留学し、4年間滞米したあと帰国した。明治12年病没。享年26。墓は東京の谷中霊園にある。

郵舶(いうはく)

郵便船のこと。

紐約爾格府(ニウヨルクふ)

ニューヨーク(New York)。

持羅(ヂラ)

「持羅」は、拓殖大学外国語学部の塩崎智教授(日米文化交流史)のご教示によれば、ニューヨーク州トロイ(Troy)である。トロイはニューヨーク州の州都オルバニーのすぐ近くにある工業都市で、ハドソン川沿いにあり、ニューヨークから200キロほど(七十里あまり)離れている。塩崎教授のご研究によれば、長谷川雉郎は一緒に留学した、松本、目賀田とともに、この地のトロイ・アカデミーで学んでいた。※2007年12月1日、メールにてご教示をお受けしました。

「持羅」の漢音「ヂラ」からは、「トロイ」とは想像できないが、中国音「ツルオ(Chí luó)」ならば多少近い音になる。節宇は、清国人と詩の応酬をしているので、中国音を知っていた可能性がある。

中校教師(ちうかうけうし)

中学校の教師。

褘邇遜氏(ヰルソンし)

ウィルソン(Wilson)。未詳。

懇懇(こんこん)

親切に繰り返すこと。

孜孜(しし)

つとめはげむさま。

講求(かうきう)

研究すること。

耆宿(きしゆく)

学徳の優れた老人。

駸駸(しんしん)

進歩が著しい形容。

朝旨(てうし)對揚(たいやう)

朝旨(天皇の意思)を対揚(天下に知らしめる)。

(くる)

心を尽くし、力を尽くすこと。

明治(めいぢ)辛未(しんび)

辛未は「かのと・ひつじ」。明治4年(1871年)。

喀血(かつけつ)(やまひ)

結核。

紐普倫或(ニウフリンヰキ)

ニュージャージー州にある、ニューブランズウィック(New Brunswick)。墓はこの地の共同墓地にある。

華頂(くわちやう)親王(しんのう)

華頂宮(かちょうのみや)博経(ひろつね)親王(1851-1876)。皇族の留学第一号となられた方。親王は自ら皇族の責任として留学を申し出られ、海軍の派遣として、明治3年、米国へ留学された。しかし、皇族としての特別扱いはなく、「書生」並みの待遇でのご留学であった。親王は、ご病気のため明治5年にご帰国、明治9年、事故により薨去された。

搢紳(しんしん)

高貴の人。(=縉紳)

起居(ききよ)飲食(いんしよく)

日常生活の用事。「飲食起居」とも。

殯歛(ひんれん)

「殯殮」とも。もともとは「もがり」といって、死んだ人を棺に納め、埋葬までの間、安置しておくこと。ここでは葬儀のこと。

情誼(じやうぎ)

友情の親しみ。よしみ。

骨肉(こつにく)

父母兄弟のこと。

松本(まつもと)莊一郎(さういちらう)

松本荘一郎(1848-1903)は、長谷川雉郎と同じく、大学南校の派遣で、雉郎と同じく明治3年(1870年)に米国に留学した。在米中から、米国留学経験者のクラブ「人力社」を組織した。明治9年(1876年)、米レンセラー工大を卒業して帰国。帰国後は、米人技師クロフォードらとともに鉄道敷設に関わり、明治26年(1893年)には鉄道庁長官となった。明治36年(1903年)、勲一等に叙勲。なお、商法学者・松本蒸治は長男。

惋惜(わんせき)

嘆き、惜しむこと。

弔慰(てうゐ)

死者を祭り、同時に遺族を慰めること。

(しよう)

ほめたたえる。

潔行(けつかう)

潔い行い。

忠款(ちうくわん)

まごころ。

非時(ひじ)(はか)

「非時」というのは、その時にはふさわしくないということ。夭折を嘆いて言ったもの。

合瘞(ごふえい)

二人の遺髪を一つのところに埋めて合祀したこと。

絕域(ぜつゐき)

なかなか行くことのできない辺境地方のこと。ここでは、異国。

(ぼつ)

「歿」と同じ。死ぬこと。

遠邇(ゑんじ)

遠近に同じ。

(はか)

音は「クヮウ  kuàng」。墓穴。

(へん)する

音は「ヘン  biăn」。埋葬すること。韓愈の『祭十二郎文』に「窆不臨其穴」とある。

客土(かくど)

他郷。

曩時(なうじ)

むかし。

來會(らいくわい)

やってきて出会うこと。

(いう)

由来。ことの次第。

(ちよう)

求めること。ここでは碑文の執筆を依頼したこと。

文字(もじ)(へん)

洋学がますます盛んになると、文字もアルファベットになるかもしれない、という意を含んでいる。

支那語(しなご)

漢文のこと。前出の「支那学」と同様、洋学に対比した言い方で、米国で学んだ長谷川雉郎の碑文は、英語であるべきだが、作者は漢文しか知らないので、漢文で記す、という意。

長谷川氏(はせがはし)

雉郎の娘は若死にしたので、子供がいなかった。そこで、養子をとり、雉郎の親類である長谷川氏の娘と娶わせた。

五十苞(ごじつぱう)

「苞」は、武士の禄高にもちいられる場合は「俵(ひょう)」と同意。したがって、50苞とは、50俵で、1俵を4斗とすると200斗、すなわち20石に当たる。明治2年(1869年)の版籍奉還によって、武士の禄高はそれまでの数分の一になった。 

2004年3月7日公開。2007年12月1日一部修正。