この文章は、岡山藩の侍医であった石坂空洞先生(1814-1899)が、大江敬香の漢詩集のために作った序文です。
大江敬香は、当時岡山の「山陽新聞」の記者でしたが、「神戸新報」へ移籍するため岡山を離れようとしていました。その際、恐らく記念のために『晴吟雨哦集』という漢詩集を編み、尊敬する空洞先生に序文をお願いしたのです。(『晴吟雨哦集』は恐らく内輪の人にだけ配られた私家版だったと思われ、現存は確認できていません。)
空洞先生のこの文章を読むと、「新聞記者」という職業が当時いかに尊敬されるものであったかが分かります。当時は「自由民権運動」のまっただ中で、各地の新聞紙によって自由民権思想が盛んに宣伝されていました。対する藩閥政府は、明治8年の讒謗律(ざんぼうりつ)や新聞市条例等による大弾圧を行いましたが、発禁や投獄をも恐れず、思想宣揚に努めた当時の記者たちは、本当に偉かったのです。のちに首相となった犬養木堂など、有能な政治家の多くが、新聞記者出身であったことからも、当時の新聞記者の志の高さが分かります。
この文章の作者の空洞先生は、蘭医として当時の最先端医療を担い、安政年間に早くも電気器具を医療に用いているほか、肝吸虫(肝臓ジストマ)という寄生虫の発見者でもあります。その一方で、漢詩文や歴史研究にも力を注いでいました。
わが国の近代史学の創始者といわれる重野成斎博士が、後醍醐天皇を守護した勤皇の英雄・児島高徳について、「児島高徳は実在しなかった」との新説を発表し、「抹殺博士」の異名を取ったことは有名ですが、この時、高徳実在説を唱えて一歩も譲らず、重野博士を論駁してやまなかった気骨の人が、空洞先生であったのです。
空洞先生が、これほどまでに絶賛する大江敬香とは、いったいどのような人物でしょうか。
大江敬香(1857-1916)は元徳島藩士で、幼少より神童と称えられましたが、体は弱かったため、藩から命じられた英国留学を辞退しています。その後上京し、藩命により慶応義塾に入り、卒業後は外国語学校を経て東京大学で経済学を学びますが、病気のため中途退学しています。このような経歴から、英学や経済学に詳しく、また漢学を独学して中村敬宇を慕い、その許可を得て「敬香」と号しました。一方で、菊池三渓や森春濤ら当時の有名な詩人に詩の添削を依頼して詩作の研鑽にも励んでおりました。
大江敬香は明治11年に静岡新報主幹に迎えられ、ついで明治13年3月には岡山の山陽新報に移ります。彼が空洞先生と交流を持ったのはこの時です。このときわずか24歳でした。空洞先生は、この創意あふれる若者を愛したに違いありません。しかし、敬香が岡山にいた期間は短く、早くもその年の8月には神戸新報へ主筆代理として迎えられ、神戸へ移っています。空洞先生がこの文章を作り、敬香に贈ったのは、この時です。神戸時代に敬香は後に隆盛を極めることになる詩社「愛琴吟社」を設立しています。
明治15年、敬香は大隈重信の改進党に参加しました。しかし、まもなく離党し、同年から東京府に出仕しました。しかし、明治24年に漢詩人として立つことを決意し、東京府を辞職。それ以後は『花香月影』、『風雅報』などの雑誌を刊行するなど、専ら漢詩文の普及に尽くしています。
三浦叶氏は『明治漢文学史』(汲古書院)162ページに、大江敬香が英学の知識を活かして英詩を漢訳したことを紹介しています。明治18年、敬香が29歳の頃の作品です。
ここには、三浦氏が同書で紹介しているものとは別の訳詩一首を紹介します。洋詩漢訳の作品は、三浦氏も指摘するごとく、試みる人は少なかったのであり、敬香の進取の志が伝わってきます。
この詩の原詩はイソップに題材を採った子供向けの教訓詩だと思われ、できばえはいま一つです。敬香の訳詩のほうが数段うまいと思います。
洋詩一首 敬香大江孝之譯
此詩第一解六句ハ、獅ノ深林ニ食ヲ求メテ羅網ニ罹リタル事ヲ述ベ、第二解六句ハ鼠ノ來リテ索繩ヲ咬ミ盡シ、獅ヲシテ脱スルコトヲ得セシメタルヲ述ベ、第三解四区ハ、獅ノ大ナルモ、鼠ノ小ナルモノニ救ハルルコトアリ、卑賤ナルヲ以テ人を輕ス可カラサルコトヲ述ブ。原詩ハ四解ナレトモ今茲ニ漢譯ノ便ヲ計リ、三回ト爲ス。蓋シ其冗長ニ似タル處ハ即チ洋詩ノ妙境ナリ。
林樾陰森猛獅遊。劫掠求有食處投。豈圖忽地罹羅網。百計要脱脱無由。猛獅爭堪此裏苦。一聲高吼夜氣幽。(一解平聲十一尤韻)
簌簌有音鼠出穴。先把索繩試一囓。鼠齒雖小鋭可驚。嚼去嚼來寸寸裂。裂至九分索繩斷。竟教猛獅忽奔突。(二解入聲○九屑六月通韻)
奇談入聽感有餘。小小爲生豈可踈。江湖名士時失路。寧知却受皀隷扶。(三解平聲○六魚七虞通韻)
A lion, prowling through the woods,
In eager for prey,
By chance was caught within a net,
And could not get away.
He tried in vain to free himself,
From this unwelcome house,
When, lo! from out its hole there crept,
A tiny little mouse.
It nibbled, with its teeth so small,
The cords that formed the net,
Till, one by one, the strings gave way,
And free the lion set!
This shows that we should not despise,
The humblest thing that lives;
The strongest at some time may need,
The help the poor man gives.
(『古今詩文詳解第百七十五集』30ページ以下)
(参考訓読)
林樾・陰森、猛獅遊ぶ。劫掠、食有る處を求めて投ず。豈に圖らんや、忽地として羅網に罹らんとは。百計脱せんと要して、脱するに由無し。猛獅爭か此裏苦みに堪へん。一聲高く吼えて、夜氣幽なり。(一解)
簌簌音有り、鼠穴を出づ。先づ索繩を把りて、試みに一囓す。鼠齒は小なりと雖も、鋭きこと驚く可し。嚼み去り嚼み來り、寸寸に裂く。裂くること九分に至つて、索繩斷つ。竟に猛獅をして忽に奔突せ教む。(二解)
奇談聽に入り、感餘り有り。小小生を爲す、豈に踈んず可けんや。江湖の名士、時に路を失ふ。寧ろ知らん、却つて皂隷の扶けを受けんことを。(三解)
(参考 現代語訳・・漢訳詩の現代語訳であり、原英詩の日本語訳ではありません。)
うっそうたるジャングルの茂みを、獰猛なライオンが行く。食べるものがあれば奪い取ろうと、飛びこんだ。まさか突然網にかかろうとは思いもよらない。なんとかして抜け出そうとするが、どうにもならない。獰猛なライオンがどうしてこの苦しみに堪えられようか。一声高く吼えたが、夜はどんどん更けてゆく。(一解)
ガサガサと音がして鼠が穴から出てきた。縄をためしにひと噛みした。鼠の歯は小さいがとても鋭い。ずっと噛み続けているうちに、縄は細かく裂けてきた。九分どおり裂けたところで縄が切れた。ついに獰猛なライオンは躍り出る。(二解)
感動的な奇談だ。とるに足りない生き物も疎略に扱ってはいけない。天下の名士もときにはスランプに陥る。そのとき身分の低いひとから助けられることもあるのだ。(三解)
2008年9月21日公開。