姓・号 | 石坂 空洞(いしざか くうどう) |
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生没年(享年) | 文化11年(1814)- 明治32年(1899) (86歳) |
諱(いみな) | はじめ堅操(けんそう)のち秋朗(あきお) |
字(あざな) | 天津(てんしん) |
通称 | 堅壮(けんそう) |
雅号 | 空洞(くうどう) |
謚(おくりな) | |
出身地 | 岡山県倉敷 |
師の名 | 小森桃塢(蘭方医)、石坂典礼(蘭方医)、森田節斎(漢学) |
官職等 | 岡山藩侍医、岡山藩医学館教授 |
代表的著作 | 西洋算籌用法略甲略解 博物新編紀聞 理学小補 内服同功 児島備州補伝 空洞遺稿 |
伝記: 岡山の倉敷に生まれる。倉敷の蘭医・石坂桑亀(いしざか・そうき)の婿養子となり、養父の後をついで岡山藩侍医となった。 安政年間には電気器具を医療に応用していたほか、緒方洪庵から種痘法を伝授されて実施するなど、積極的に最新医療の摂取に努めた。 明治10年、当時流行していた寄生虫・肝吸虫(肝臓ジストマ)を、死亡した農民を病理解剖することにより発見した。この大発見は『医学雑誌』に発表され、空洞の名を不朽にした。 また、勤王の志をもち、児島高徳の事跡の考証に努めた。わが国の近代史学の創始者といわれる重野成斎博士が「児島高徳は実在しなかった」との新説を発表したとき、空洞は高徳実在説を唱えて一歩も譲らず、重野博士を論駁してやまなかった。 そのほかにも、本草学(植物学)や、書画、琴などにも才能を発揮するなど、非常な多才であった。 明治18年に上京してからは、専ら風流の道に精進した。 陸軍軍医総監の石坂惟寛(いしざか・いかん)は養子。 | 2008年9月21日公開。 |