井上 梧陰
岩倉村は、岩倉公がまだ低い身分であったころに隠棲していた場所である。公は失脚し、処分を受けてから数年にわたって、岩倉村に隠棲していた。当時、時局は急を告げており、公は一日も王政復古のことを考えない日はなかった。そまつなあばら家から一歩も出なかったにもかかわらず、公は天下の情勢を見渡し、冷静に時局の変化を観察して、尊王の志士たちを糾合していた。このころ現太政大臣の三条公は大宰府に潜伏し、スパイを使って公卿の同調者を探していた。そこでこの二公の協力関係がはじめて生まれた。故大久保、広沢ら、のちに参議となった諸公とも連絡を取り、深謀熟慮のかぎりを尽くして計画を練った。岩倉公は諸藩の情勢にも通じており、ついに天皇に上奏して、王政復興を画策するにいたった。そしてついに倒幕の密勅が朝廷から公の手に下され、王政復古の大計画は宮中で決定せられた。しかしそれを知るものは誰もいなかった。
慶応3年12月9日の王政復古の大号令のときには、岩倉公は一袋の文書をふところに、払暁御所に参内した。王政復古の大号令が発布され、摂政・関白・将軍以下の職が廃止となり、文武の諸官が新たに任命された。命令は流れるように次つぎと出る。一時は事態が緊迫し、大久保公ら多くの同志が戦場に赴くなかで、岩倉公は宮中で国事を統括し、王政復古は大過なく成功した。すべて公が岩倉村に隠棲していたときに、あらかじめ計画していたとおりになったのだ。
東京への遷都が行われると、岩倉公は天皇の側近として重責を荷うようになった。しかし、あいた時間には、思い出話に岩倉村のことばかり話した。岩倉村の山や川、まわりの景色が今でも目に浮かぶようだった。京都へ出張することがあれば、必ず岩倉村に立ち寄り、主だった人人を集めて宴会を催し、旧交を温めた。なかには感極まって涙を流す人もあった。
晩年、後輩らと世の情勢を論じては、「人は権勢に溺れやすく、名節を全うすることは難しい」と言った。そして自分は悠然と身を処して人臣たるものの進退の手本を示したいと考えていた。死の直前に病状が悪化したとき、公は天皇に上奏して、右大臣の職を解いてほしいと希望した。その上奏文のなかに、「晩節を全うすることを心に誓い、職のあるなしで臣下としての義理を分け隔てするようなことはございません」という言葉があった。天皇はその至誠をあわれに思し召され、公の希望をお許しになった。公はその御恩に感泣して、一時は病が癒えたかのようであったが、その翌日に逝去した。
政府では、史官に岩倉公の勲功を記録させ、公の墓に神道碑を建立することになった。それとは別に、岩倉公の子息・具綱らは岩倉村の人人とともに、公の遺髪を昔の隠棲地に埋めて、この碑を建てることにした。碑文には、岩倉公が岩倉村をいつも恋い慕って忘れることがなかったこと、そして公の勲功は実にこの場所で艱難に耐えることから始まったことを記録した。後世の岩倉公を思慕する人人よ、この碑を見て公の志を知ってほしい。
2006年10月1日公開。