日本漢文の世界

姓・号 井上 梧陰(いのうえ ごいん)
生没年(享年) 天保14年(1843)-明治28年(1895) (52歳)
諱(いみな) 毅(こわし)
字(あざな)  
通称  
雅号 梧陰(ごいん)
謚(おくりな)  
出身地 熊本
師の名 木下犀潭
官職等 司法省法制局長官、枢密院顧問、文部大臣(第二次伊藤博文内閣)
代表的著作 梧陰存稿(二冊)
内外臣民公私権考(憲法衍義之一)
仏国司法三職考
治罪法備考(編纂)
孛国憲法(訳)
王国建国法(訳)
奢是吾敵論(訳)
肖像:

井上梧陰 日本漢文の世界

伝記:

 熊本に生まれる。もと飯田氏。井上家の養子となる。藩校時習館で木下犀潭の教えを受ける。(犀潭門下には、ほかに竹添井井、元田東野らがいる)。江戸に遊学し、維新に際しては奥羽戦争に従軍した。
 維新後再び上京して、司法省に出仕し、フランスおよびドイツに派遣された。帰国後、大久保利通に登用され、北京談判にも随行した。「明治14年の政変」では岩倉具視、伊藤博文の黒幕として活躍した。
 和漢の学に造詣が深く、大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭の起草に参画したほか、対清国、対朝鮮外交に活躍した。
 その後、枢密院顧問官、文部大臣を歴任。文部大臣としては、実業教育の普及に力を入れた。
 明治28年に52歳で没。死後に子爵を授けられた。
 中江兆民、徳富蘇峰らとも交流があった。蘇峰の『妄言妄聴』(明治28年12月15日『国民新聞』掲載)に次のような記事がある。
 「明治二十年の頃かと覚ゆ、一日兆民君と井上梧陰先生の邸に会す。先生君の「三酔人経綸問答」の稿本を繙(ひもと)き、且(か)つ読み且つ評して曰く『面白き趣向なり、併し素人には、解らぬ。とても「佳人の奇遇」程には売れざる可し』と。果たして其の言の如かりし。」(中江兆民全集別巻209ページ)
 中江兆民の『一年有半』(明治34年刊)のなかに、次のような人物評がある。
 「余近時に於(おい)て真面目なる人物、横着ならざる人物、ヅウヅウしからざる人物唯(ただ)両人を見たり、曰く井上毅、曰く白根専一、今や則(すなわ)ち亡(な)し。」(中江兆民全集10巻154ページ)
 「近時我邦政事家井上毅君較(や)や考うることを知れり。今や則亡し。」(中江兆民全集10巻178ページ)
2006年10月1日

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