日本漢文の世界


岩倉村瘞髪碑解説

日下部鳴鶴筆『岩倉村瘞髪碑』拓本 日本漢文の世界
日下部鳴鶴筆『岩倉村瘞髪碑』拓本

日下部鳴鶴筆『岩倉村瘞髪碑』拓本 日本漢文の世界
上記拓本の一部。非常に立派な字です。

 岩倉村瘞髪碑は、井上毅(いのうえ・こわし)子爵の数少ない漢文作品の一つです。井上子は、木下犀潭(きのした・さいたん)門下のエリートで、漢文の造詣も深いのですが、むしろ和文の振興に積極的で、漢文の作品はあまり多くはありません。しかし、『梧陰存稿』に収められた少数の漢文作品は、どれも質が高く、同時代のなかで群を抜いています。これは、井上子が政府の要人として、国家経営に深く関与していたことも関係しているに相違ありません。「岩倉村瘞髪碑」の文も実に名文です。
 岩倉公は、明治維新の元勲の一人であり、旧五百円札に肖像が刷り込まれていたため、中年以上の方には身近な存在だと思います。
 岩倉公は、もともと公武合体派であったため、幕府の工作に協力し、皇女・和宮(かずのみや)の降嫁の実現に貢献しました。しかし、これが「佐幕」(幕府を助けること)とみなされて、尊王攘夷派から攻撃され、失脚しました。
 文久2年(1862)、岩倉公は目の前に比叡山を仰ぐ岩倉村に小さな家を買って、移り住みました。比叡山にちなんで「友山」あるいは「対岳」と号して「隠棲生活」を装ったのです。
 岩倉公は5年間におよぶ「隠棲生活」中に、大宰府にいた三条実美(さんじょう・さねとみ)公と連絡を取りあい、大久保利通、坂本竜馬ら志士たちと交流しました。当時は田舎であった岩倉村の小さな家が、志士たちとの交流の場となったのです。維新後、岩倉公はよく岩倉村の思い出を話したということですが、この文章の起草者である井上子も公の思い出話を親しく聞いた一人であろうと思われます。
 「鄰雲軒」と名づけられた、この茅葺(かやぶき)の小さな家は、いまも岩倉実相寺のそばに残されており、一般公開されています。その庭に「岩倉村瘞髪碑」が建っています。
 「岩倉村瘞髪碑」の揮毫は、明治第一の書家、日下部鳴鶴によるものです。この碑は鳴鶴作品としてはあまり知られていないようですが、雄渾の筆致はすばらしいと思います。

2006年10月1日公開。