井上 不鳴
維新以前のことだが、蜂須賀阿波守大龍公は、力士・黒縅(くろおどし)という者を召抱え、俸禄を賜り、抱え力士とした。黒縅は、陣幕と改称した。時に二十二歳であった。言葉少なく飾り気のない人柄で、相撲部屋の皆から愛されていた。
陣幕は出雲の国(島根県)松江の農民の子である。名を久五郎(きゅうごろう)という。小さい時から体が大きかったが、十五歳の時には、体格たくましく、力は人並みはずれ、出雲中に対抗できる者はほとんどいなかった。相撲大会があるごとに、久五郎は関取として出場し、郷里の少年たちはこぞって彼の贔屓(ひいき)となった。贔屓とは、ファンのことである。少年たちは口ぐちに久五郎に三都(江戸・大阪・京都)の相撲部屋に入ることを勧めた。しかし、久五郎の父親は、我が家は田畑がたくさんあり、生活にも余裕があると言って、息子が力士になることを許そうとしなかった。
十八歳のとき、松江で勧進相撲が開かれた。勧進というのは、力士がたくさん集まる相撲興行のことをいうのである。力士には階級がある。大関・関脇・小結以下を前頭(まえがしら)という。大関から前頭五枚目までが上(かみ)八枚と言っている。このとき八角(はっかく)という力士がおり、この勧進相撲で仮に大関の役割を担っていた。彼は前頭五枚目の名手であり、その弟子某も有名な力士であった。この時、久五郎は毎日相撲場で取り組みに参加し、当たるところ敵なしであった。贔屓の少年たちは、久五郎を八角と対戦させてほしいと願い出た。八角は土俵に上がったが、憤激で顔が膨張しており、左脇で久五郎の右腕を挟み込むと、力をこめてへし折り、久五郎を押し倒した。見物客は、おどろき騒いだ。贔屓の少年たちは、すぐに久五郎を助け出した。久五郎は数か月の治療により、やっと全治することができた。久五郎の父親は息子を訓戒して相撲をやめさせた。しかし、贔屓の少年たちは心の怒りを鎮めることができず、久五郎の父親に訴えた。
「息子さんは、力は八角よりも勝っているのです。ただ、相撲の技の練習が足りないから、負けただけなのです。そもそも土俵で人を傷つけたら、その罪は死罪に当たります。しかし八角は、過失でした、と言いわけをしている。このままでは恨みを晴らすことはできません。ですから、息子さんを相撲部屋に入れなさい。そうすれば一年もせずに恨みを晴らすことができましょう。これを断るのなら、村中あなたと絶交しますよ。」
久五郎の父親は、やむをえず息子を相撲部屋に入れることに同意した。そこで、贔屓の少年たちは、久五郎を連れて大阪へ出向き、大関秀ノ山の弟子にしてもらった。それから久五郎は二年間努力を重ね、前頭二枚目に進んで、名声は天下に聞こえるようになった。
大阪では例年大勧進を開いている。贔屓の少年たちは大勧進が開かれると聞いて、急ぎ身支度をして大阪へと繰り出した。そして、頭取にお願いして陣幕と八角が対戦するようにしてもらった。ここで前年の恨みを晴らそうというのである。八角は怖じ恐れた。呼び出しが東西の力士の名を唱え、行司はうちわを持ってうずくまっている。陣幕と八角は土俵に上った。八角は意気阻喪して顔面蒼白となっている。二人は、しばらく気合いを入れて、一斉に身を起こした。陣幕は八角のまわしを掴んで、持ち上げた。まるで、木片でも持ち上げるように軽軽と持ち上げ、土俵外に八角を下ろすと、そのまま陣幕は、平然と振り返ることもなく退場した。満場の大喝采はいつまでも続いた。しかし、贔屓の少年たちは、失望して歯ぎしりし、陣幕の約束違反を罵った。陣幕は、おもむろに返答した。
「兄さんたちと、きっと恨みを晴らすと約束したのに、今日になって約束を破ったのは、ほんとにいくら謝っても足りないことでございます。しかし、それがしが考えに考え抜いたことを、ちょっと聞いておくんなさい。相撲部屋では任侠を大事にいたします。そして任侠では義理ということを大事にいたします。それがしの今日あるは、まったく兄さんたちのおかげでございますが、実はあの八角に恨みを晴らしてやりたいという思いが、その元になっていたのでございます。ですから、八角のおかげでそれがしの今日があるといっても言い過ぎではございません。そういうわけですから、八角に恨みを晴らすのは義理ではございません。どうか御理解をたまわりませ。」
少年たちはむっつりと黙りこんでしまった。
その夕べ、八角は酒と肴を携えて、陣幕の旅館を訪ねた。八角は頭を畳に擦りつけて謝罪の言葉を述べた。
「それがしは前年、兄貴に大怪我を負わせてしまいましたが、それは弟子が兄貴に負けたことが悔しくて、怒りにまかせてやってしまったことでございます。しかし、今は兄貴の技量は天下第一で、それがしはもう絶対に殺されるものと覚悟いたしておりました。しかし、兄貴には、あのように寛大な処置をなされたこと、それがしはもう自分が恥ずかしくて恥ずかしくて、どうお礼申し上げてよいかも分かりません。それがしは、明日相撲部屋を辞めて相撲界から去ろうと思うております。このひと樽の濁り酒は、せめて兄貴の御恩に報いたいと思うて持ってきたのでございます。ぜひとも兄貴と兄弟の契りを交わしとう存じます。」
陣幕と八角はその夜を飲み明かし、八角はいずこともなく立ち去った。
ああ、陣幕の度量の広いことは、仁人・君子と並べても恥じないくらいである。長い間、わが藩公の寵愛を受けたばかりか、大関にまで昇進したのも、納得できるではないか。陣幕は三十八歳で力士を勇退して、東京・大阪・京都の三府の頭取になった。今年、明治十四年、彼は五十歳となったが、今も頭取の職にある。頭取は相撲部屋を全体として取りまとめる役であるが、規定では定員がある。しかし、陣幕は人望厚いため、定員外の頭取に就任しているという。
さて范雎(はんしょ)は、天下の士というべき優れた人物であったが、志を得て宰相の地位に昇ると、過去の恨みは「睨まれた」というような微細な恨みまでも徹底的に報復したという。その心が狭く、力士にさえ及ばないのはどうしたことか。有り余る才能を持ちながら、人徳は足りなかったのであろう。なんたることか。
2011年1月1日公開。