日本漢文の世界


角觝者陣幕傳解説

 これは、相撲のことを書いた、珍しい漢文作品です。
 相撲ファンの方は「陣幕」の名に聞き覚えがあるかもしれません。相撲界には、「陣幕」という名跡が今もあります。平成3年に名横綱・千代の富士が引退した際に「陣幕」名跡を継いだことは有名な話です。(その後、千代の富士は「九重」を襲名。)しかし、千代の富士が継いだ「陣幕」名跡は、実は陣幕久五郎とは無関係です。「陣幕」名跡は二つあり、後に「陣幕」と「北陣」に分けられました。陣幕久五郎ゆかりの名跡は「北陣(きたじん)」の方です。「北陣」は、現在、元関脇・麒麟児が継承しています。
 この文章の主人公である、第12代横綱・陣幕久五郎(じんまく・きゅうごろう、1829-1903)は、幕末の名力士であり、「横綱力士碑」を建碑したことで有名な人です。
 文政12年(1829年)出雲の八束郡意東村(現東出雲町)に生まれ、力士を志して備後尾道の初汐久五郎(はつしお・きゅうごろう)の弟子となり、「黒縅(くろおどし)」と称しました。嘉永元年(1848年)大阪相撲の朝日山四郎右衛門の弟子となり、嘉永三年(1850年)江戸相撲の秀ノ山雷五郎の弟子となります。このころ、職業相撲には江戸相撲、大阪相撲、京都相撲があり、江戸相撲がいちばん華やかで実力もありました。
 安政三年(1856年)、黒縅は阿波の蜂須賀侯の抱え力士となり、「陣幕久五郎」と改称しました。以後負け知らずで、「負けず屋」の異名を取りました。当時は各藩がきそって力士を抱え、江戸をはじめとする各地で「勧進相撲」と称する巡業を行っていました。これは各藩の広報活動という側面もあったのです。
 陣幕は、文久3年(1863年)雲州、元治元年(1864年)薩摩と抱え先が変わり、慶應二年(1866年)、大関に上りました。
 慶応三年(1867年)、京都五条家と吉田司家から横綱の免許を受け、第12代の横綱を張りました。当時の横綱は名大関に許された称号であり、地位ではありませんでした。
 明治維新に際しては、島津久光公に属して国事に奔走し、西郷隆盛の知遇を受けました。このため、「勤王力士」と称されています。
 明治2年(1869年)、大阪相撲に移籍して力士を引退。大阪相撲の頭取総長となり、様様な改革を実行したので、大阪相撲は東京相撲を凌駕する勢いで発展しました。東京方との東西合併場所も、毎年にわたって開催しています。しかし、経営手段が強引にすぎたのか、明治9年(1876年)頭取総長の座を追われ、明治13年(1880年)には名跡を弟子に譲り、角界から去りました。不鳴先生は、陣幕は明治14年になお頭取の職にあると書いておられますが、実際は違います。その後、陣幕は広島や東京で、軍の御用達を生業としました。
 明治33年(1900年)、陣幕は東京の深川公園に「横綱力士碑」を建立して、第16代までの歴代横綱の名を刻みました。この「第○○代横綱」という呼び方は、陣幕が創始したものです。しかし、当時この建碑は売名行為と見られ、東京角力協会はこれを無視しました。陣幕久五郎は、明治36年(1903年)、日本橋区北新堀町の自宅でひっそりと亡くなりました。享年75。
 その後、明治42年(1909年)、横綱は単なる称号から階級に変わりました。昭和2年(1927年)には、大阪と東京の相撲協会が合併し、統一組織として大日本相撲協会ができました。ここに至って、陣幕の定めた「歴代横綱」はようやく追認され、以後新横綱が誕生するたびに、その名が「横綱力士碑」に刻まれることになったのです。
 この文章は、陣幕の若き日のエピソードを伝えており、非常に興味深い内容です。漢文としてはやや稚拙な部分もありますが、幕末の相撲界の様子を伝える珍しい文章なので、あえて紹介することにしました。ただ、江戸相撲の秀ノ山を大阪相撲の頭取(年寄)とするような致命的な事実誤認があるほか、陣幕の年齢など基礎的事実に誤りがあるのは残念です。作者・井上不鳴先生は、大の相撲通だったらしいのに、これは一体どうしたことでしょうか。当時の相撲通は、現在の相撲ファンとは違い、力士のプロフィールなどには関心が薄く、情報等も少なかったのかもしれません。
 この文章の最後に、中国の戦国時代に活躍した范雎(はんしょ)という人物のことが書かれております。范雎は、自分が秦の宰相の地位に着くと、それまで自分をひどい目にあわせた者たちに徹底的に報復しました。「睨まれた」というような微細な恨みまで徹底的に報復したため、「睚眦(がいさい)の怨み」などという成語ができたほどでした。なぜ范雎に言及したかというと、当時の知識人は必ず『史記』の「范雎蔡澤列伝」を読んでいたので、「范雎」と聞けば、刻薄な復讐者をすぐに想像できたからです。明治初年には、にわかに地位を得たものが、権力に任せて私怨を報ずるようなことも多多あったのかもしれません。范雎は、そのような人物に譬えられているのです。陣幕も、かたきである八角に対して、復讐できる立場になったにもかかわらず、相手を許す度量の広さを見せました。作者の強調したいのはこの点です。『史記』を読まない現代人には、いささか唐突に感じられる范雎の話は、当時の知識人にとっては説得力抜群なのです。
 作者・井上不鳴先生は、阿波藩医としては四国で初めて種痘をした人で、シーボルトにも会っています。致仕(退職)後は文学に凝り、依田学海から「文字に富む」と絶賛されるなど(学海日録)、当時の有名なディレッタントです。
 不鳴先生が徳島藩医として、藩主・蜂須賀大龍公・斉裕(なりひろ)に従って江戸に上ったのは、安政6年(1859年)のことです。当時、陣幕久五郎は徳島藩のお抱え力士でした。不鳴先生も、恐らく陣幕の取り組みを、間近に観戦したことでしょう。このエピソードも、あるいは陣幕から直接聞いた話かもしれません。
※陣幕久五郎の伝記としては、川端要壽(かわばた・ようじゅ)氏の小説『勤王横綱 陣幕久五郎』(河出書房新社)があります。詳しく調べて書かれているので、これを読めば久五郎の生涯を克明にたどることができます。
 昨年(2010年)も、残念ながら角界は不祥事続きでした。一ファンとして、角界のすみやかな再生を願っています。

2011年1月1日公開。