日本漢文の世界


蕉翁逸事現代語訳

俳聖芭蕉翁のエピソード

青山 鉄槍
 芭蕉は伊賀の人である。
 元禄のころ、大和の国の武内村にイマ(今)という孝女がいた。とても善良な性格で、会う人はみな深い感銘を受けた。
 ある年芭蕉は、近畿に滞在していた。吉野の桜を見に行くため、やっと一両ばかりの金を工面し、旅費に充てることにした。たまたま孝女イマの話を聞いたので、わざわざ回り道をして会いに行った。イマに会うと、芭蕉は彼女の孝養心の深さにに心を打たれ、貧乏なのを気の毒に思って、財布から一両の金を取り出して、イマに差し出した。イマは固辞したが、芭蕉は強いて金を取らせ、吉野へは行かずにそのまま帰途に就いた。
 帰りの道中で友人に出会った。その人は芭蕉に「吉野の桜はどうでしたか」と尋ねた。
 芭蕉は事の次第を話した。
 友人は言った。
「御隠居はいつも、なんとかして吉野の桜を観たいと心に願っていましたね。やっと旅費ができたのに、花見に行かず人にやっておしまいになるなんて、残念なことをしたものですなあ。」
 芭蕉は笑って言った。
「私が吉野に行きたいのは、花が美しいからだ。今日は、心の美しい人に出会えたのだから、花を見なくても、ちっとも残念じゃない。それに春はまた来るじゃないか。」
 そういうと、芭蕉はさっそく旅立っていった。

2002年8月31日公開。2003年11月16日一部修正。