姓・号 | 青山 鐵槍(あおやま てっそう) |
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生没年(享年) | 文政3年(1820)- 明治39年(1906) (87歳) |
諱(いみな) | 延寿(えんじゅ 「のぶとし」と読むとの説もあり) |
字(あざな) | 季卿(ききょう) |
通称 | 量太郎(りょうたろう) |
雅号 | 鉄槍(てっそう)、鉄槍斎(てっそうさい) |
謚(おくりな) | |
出身地 | 水戸 |
師の名 | 青山拙斎、古賀侗庵 |
官職等 | 水戸藩儒(弘道館教授頭取代理、彰考館権総裁) |
代表的著作 | 皇朝金鑑(22巻) 大八州遊記(13巻) 鉄槍斎文抄 鉄槍斎詩抄 |
伝記: 青山拙斎(水戸の儒臣。『皇朝史略』の著者)の末子(四男)として水戸田見小路に生まれた。天保9年(1838年)から1年の間、父・拙斎が江戸詰めとなったのに従って上京し、古賀侗庵の教えを受ける。天保14年(1843年)、水戸藩の藩学である弘道館の訓導に抜擢され三人扶持、御役料10両を給せられた。 槍術が得意で、しばしば藩主から御前試合を命ぜられ、「鉄槍」の号は、褒美として鉄の槍を賜った記念だという。(山川菊枝『覚書 幕末の水戸藩』、岩波文庫、115ページ) 水戸藩主・徳川斉昭(とくがわ・なりあき)は、士気を鼓舞し、熱心に軍備に努めたが、これが幕府の疑いを招き弘化元年(1844年)謹慎を命じられた。鉄槍は、藩主の無実を紀州公に訴えるため、江戸へ上る準備をしていたが、計画が漏れ、弘化3年(1846年)免職となった。その後、嘉永6年(1853年)に復職し、慶応2年(1866年)弘道館教授頭取代理、彰考館権総裁に任じられた。 維新後、明治5年(1872年)に東京に移住し、東京府庁地誌課、修史局に勤めたが、明治12年(1879年)に辞職。辞職後は、旅行と著述に余生を送った。 未完成であった『大日本史』の表・志の完成にも協力した。(『大日本史』全部が完成したのは、鉄槍の没年である明治39年である。) また、清国公使・何如璋の書記官であった黄遵憲と親交があり、黄遵憲の『日本国志』著述の資料協力をしている。鉄槍の主著『皇朝金鑑』の序文は黄遵憲が書いている。 明治20年(1887年)、全国の名勝をまわって書いた紀行文、『大八州遊紀』を出版。 明治39年(1906年)、87歳で没。 社会党の婦人運動家として有名な山川菊栄は、鉄槍の孫に当たる。山川の著書『覚書 幕末の水戸藩』(岩波文庫)には、鉄槍に関する記事のほか、当時の水戸藩士の暮らしぶりなども細かく書き込まれていて参考になる。 | 2001年8月5日公開。 |