青山 鐵槍
芭蕉翁は、伊賀の人なり。元祿中、大和の國・武内村に孝女有り。名は今といふ。至性有り、人皆感動せり。芭蕉、一歳往いて山城・攝津の閒に在り、將に花を芳野に賞せんとす。僅に金一兩を得て、以て路費に當つ。今女の名を聞き、道を枉げて造る。其の孝養に感じ、且つ其の窮乏を憐み、乃ち嚢中の金一兩を出して之に贈る。今辭して受けず。芭蕉強ひて之に與へて去り、徑ちに歸途に就けり。途に一友人に遇ふ。其の人翁に謂ひて曰く、「芳野の花何如。」と。芭蕉語るに其の故を以てす。友人曰く、「翁平生、心芳野の花を觀るに切なり。今路費を得て而も觀花の費と爲さず、之を人に與ふるは、實に遺憾と爲す。」と。芭蕉笑ひて曰く、予の芳野に遊ばんとするは、花の美なるが爲也。今幸に人の美なる者を視たり。何ぞ花を觀ざるを恨みん。春は他時又至らん。」と。竟に袖を拂ひて去れり。
2001年8月5日公開。