この文章の魅力は、松尾芭蕉の人間味あふれる一面をみごとに活写したところにあります。
どうしても見たかった吉野の桜を見に行くための旅費を、孝女イマに贈ってしまい、「美しい心の人に会えた」、と満足して去っていく芭蕉。芭蕉の孝女イマを心から賞賛する気持があらわれていて、思わずホロリとさせられます。
さて、このイマがどういう人であったかについては、『近世畸人伝』巻一に「大和伊麻子」という記事があります(岩波文庫版では50ページ)。それによりますと、イマ(伊麻)は、大和国葛下郡竹内村の寡婦で、60歳をすぎてからも老いた父の世話をしていました。ところがこの老父が病気になって食べることができなくなり、イマは心配でたまりませんでしたが、その老父がふと「うなぎが食べたい」というのです。ところが山中のこととて、うなぎなど手に入りません。どうしたらと思案しているうちに夜になりますと、水がめのところでポチャンと音がする。イマが驚いて見ると、なんとうなぎが甕のなかにいるではありませんか。老父はこのうなぎを食べて病気が治ったということです。芭蕉がイマに会ったのは、このことがあって後の貞享5年(1688年)4月、芭蕉45歳のときで、イマは60歳を越えた老女です。鉄槍先生のこの文章だけを読んでいたときは、なんとなく若い娘かと思っておりましたが、ちがいました。
さて、芭蕉が尾張から大和路を経て須磨・明石にいたる旅を記した俳諧紀行『笈の小文(おいのこぶみ)』には、イマのことは記されていませんが、イマのところへ立ち寄ったのは吉野の花を見た後であるようです。したがって、旅費を全部贈ったというのはフィクションです。芭蕉に吉野の花の句がないのは、花があまりに見事だったので句が作れなかったからであり、吉野の花を見られなかったからではないのです。
『近世畸人伝』の伝えるところによれば、京都に戻ると芭蕉は書家の北向雲竹にイマに会った感動を語ります。雲竹はそれを聞いて自分もイマに会いに行こうと思い立ちますが果たせず、門人の海北友竹が代わりに会いに行き、イマの肖像画を描いたということです。
2001年8月5日公開。2003年11月16日一部追加。