日本漢文の世界

 

月ヶ瀬梅渓(月瀬記勝)



3.梅の名所としての月ヶ瀬村の過去と現在

月ヶ瀬梅渓(帆浦梅林) 日本漢文の世界 kambun.jp
帆浦梅林

 「月ヶ瀬」は、つい最近まで「奈良県添上郡月ヶ瀬村」と称していましたが、平成17年(2005年)4月1日、いわゆる「平成の大合併」により奈良市と合併し、現在は「奈良県奈良市月ヶ瀬」となっています。
 この土地はかつては10万株という圧倒的な梅の木と、山と川の風景が溶け合った景勝でしたが、現在ではかつての景観は失われています。
 拙堂先生が訪れたころには10万株あった梅の木が、いまの月ヶ瀬には1万株ほどしかありません。さらに、かつてその優美を謳われた渓流も、昭和44年(1969年)に完成した高山ダムにより水没し、「高山湖」と称されるダム湖に変わってしまったからです。

月ヶ瀬梅渓(斎藤拙堂碑) 日本漢文の世界 kambun.jp
ダム湖(高山湖)

 梅の木の激減は、明治維新後の産業構造の変化によるものでした。
 月ヶ瀬村の梅林は、観光用に植樹されたものではなく、梅の実の加工品である「烏梅(うばい)」を作るための農作物でした。「烏梅(うばい)」とは、梅の実を燻蒸したうえで日干しして作るもので、染物業で使用される色素定着剤です。烏梅は京都や大阪の染物屋で高価に引き取られるため、江戸時代まで村の大きな収入源となっていました。拙堂先生も書いていますが、山地で土地のやせた月ヶ瀬村では米作ができず、烏梅の生産により年貢を納め、生活費も稼いでいたのです。
 しかし、明治に入り西洋から化学染料を輸入するようになると、烏梅の需要は急激に減少しました。そのため梅林の経済的価値は失われ、梅の木はどんどん切られてしまいました。その後、明治24年(1891年)、地元有志により「月瀬保勝会」が結成されて梅林保存運動が始まり、梅干しの生産などを始めたことにより、かろうじて2万5千株ばかりの梅林が残されました。しかし戦後、更なる試練が訪れます。

 

頼山陽詩碑 日本漢文の世界 kambun.jp
頼山陽詩碑。もとの碑はダム湖に沈んだ。この碑は沈んだ碑を模して造られた。

 昭和28年(1953年)6月、建設省(現在の国土交通省)が突然「高山ダム」建設構想を発表しました。月ヶ瀬村の人々は大いに驚き、村を挙げての反対運動が起こりましたが、地元の反対もむなしく、昭和44年(1969年)に高山ダムは完成しました。その結果、月ヶ瀬村の梅林は約7千株が水没し、絶景を称された渓流はダム湖に変わり、頼山陽の詩碑等、移設できなかった文化財もまた水没の憂き目をみました。
 高山ダムの完成直前には、水没前の月ヶ瀬村を見ておこうと観光客が激増しましたが、ダム完成後は観光客は激減し、また自動車による日帰り観光が一般化したために、月ヶ瀬村では多くの旅館が廃業に追い込まれました。
 こうして、拙堂先生が味わった梅の花であふれた月ヶ瀬の光景は二度と見られない遠い過去の風情となってしまいました。鎌田梁洲の『観瀑図誌』で描かれた赤目四十八滝が当時の面影を色濃く残しているのと好対照です。津藩の学者・土井聱牙(どい・ごうが)は、『観瀑図誌』序文において、月ヶ瀬村は梅の木がなくなってしまえば名勝ではなくなるが、赤目四十八滝は地形の美なのでいつまでも変わらない(取意)と言っていますが、驚くべき炯眼です。しかしさすがの聱牙先生も月ヶ瀬村が高山ダムにより地形まで変わってしまうとは予見できませんでした。

月ヶ瀬温泉 日本漢文の世界 kambun.jp
月ヶ瀬温泉

 現在の奈良市月ヶ瀬は、今もなお1万株の梅林があり、開花の季節になると、「梅まつり」が開かれていますが、全国的な観光ブームには乗り遅れています。
 平成10年(1998年)に「月ヶ瀬温泉」の施設が作られましたが、宿泊施設の併設はなく、館内レストランはあるものの、名物料理はありません。観梅道で梅の季節だけ開かれる茶屋も旧態依然としており、土産物として売られているのは梅の盆栽や梅干しなどで、気の利いた菓子類などは見当たりません。
 奈良市は少なくなりすぎた梅の木を増やす取り組みをしており、一昨年(2017年)春に訪れたときには、小規模ながら代官坂で梅の苗木を植える作業を行っていました。この程度のことではかつての景観をとりもどすことはできませんが、地元が地道な努力を続けて梅林の整備が更に進んでいけば、観梅の名所としての月ヶ瀬が復活できるかもしれません。そうなることを願っています。

月ヶ瀬梅林における植樹 日本漢文の世界 kambun.jp
月ヶ瀬梅林での植樹作業


2019年5月2日公開。

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