日本漢文の世界

 

月ヶ瀬梅渓(月瀬記勝)



2.『月瀬記勝』の「江戸シノワズリ」について

月ヶ瀬梅渓(斎藤拙堂碑) 日本漢文の世界 kambun.jp
月ヶ瀬梅林

 大室幹雄氏は名著『月瀬幻影』(中公叢書)において、『月瀬記勝』を「江戸シノワズリ」の代表的作品として紹介しています。「江戸シノワズリ」とは、江戸時代の鎖国により実際には外国との接触ができなかった当時の知識人が、書物の上で学んだ知識上の中国趣味を、日本の風景等に適用した作品を作ることです。当時のわが国では、柳宗元や陸放翁等の詩文にに学び、漢詩文の定型によって日本の風景を記すことに主眼が置かれていました。当然ながら日本と中国では風土が異なるので、中国趣味をそのまま日本に適用すると、ありえないフィクションになってしまう場合もあります。

月ヶ瀬梅渓(斎藤拙堂碑) 日本漢文の世界 kambun.jp
月ヶ瀬梅林

 さて、『月瀬記勝』におけるシノワズリは、拙堂先生の年上の友人・頼山陽の加筆によって更に磨きがかかっています。頼山陽は若き友人・拙堂の初稿にくまなく手を入れて添削しました。拙堂先生は頼山陽の添削を受け入れ、版本には頼山陽の添削がほぼすべて反映されています。拙堂先生の初稿は、先生の誠実な性格を反映した正直で写実的なものでしたが、頼山陽の大胆な潤色が加わって作品は一転してダイナミックなものとなり、衒学的に読者をあおる挑戦的文学となって、当時の読者を酔わせました。当時の漢文学界を代表する二人の文学者の共同作業により、稀有の作品『月瀬記勝』は成立したのです。
 この頼山陽による添削の詳細は、『日本藝林叢書』第二巻所収の「賴山陽刪潤梅谿遊記」によって知ることができます。(「賴山陽刪潤梅谿遊記」の存在は大室氏の本で知りました。)当サイトでは、「賴山陽刪潤梅谿遊記」も掲載しましたので、ご参照ください。
 かくて本書は心に残る名作として多くの人に享受され、月ヶ瀬を観光地として押し上げていったのです。

内容 引用される中国の地名や詩文(シノワズリ)
記一 概要・地勢・旅行詳細
記二 一目千本 杭州の孤山、蘇州の鄧尉、羅浮山の梅花村
記三 月と梅 林逋の『山園小梅』、邵康節の『安樂窩中吟』
記四 雪と梅 盧梅坡の『雪梅』、韓愈の『春雪間早梅』、「粉傅何郎」(『世説新語』、宋広平の『梅花賦』等)、
記五 舟(尾山) 陶淵明の『桃花源記』
記六 舟(桃野)
記七 高台からの眺め 「泰山」
記八 山村の経済
記九 帰途・総括
梅溪十律 陶淵明の『桃花源記』、白楽天の『朱陳村』詩、林逋の『山園小梅』、宋広平の『梅花賦』、方岳の『雪梅』詩、等々

 大室幹雄氏は、当時の観光は知識人が主導したと言っています。彼ら知識人は新たな景勝を発見し、その場所を称揚する詩文を作り、仲間と交換しました。彼ら知識人の発見する景勝は、農民たちが生活のために作った景観であり、農民たちにしてみれば当たり前の風景でした。月ヶ瀬村の場合も、梅林は村民たちが農作物として植えたものでしたが、それは10万株という未曽有の規模になっており、知識人によって称揚すべき景観として驚きをもって発見されたのです。
 月ヶ瀬村を紹介する『月瀬記勝』は、拙堂先生の誠実な写実がもとになっているので、現実とかけはなれたシノワズリ一辺倒のものとはならず、むしろ月ヶ瀬村のすばらしい景観を写実的に表現し、適度にシノワズリの衒学を感じさせる秀逸な作品となり、多くの人々に享受されました。
 『月瀬記勝』によって観光地となった月ヶ瀬の地には、知識人に続き庶民も花見に訪れるようになり、月ヶ瀬村はメジャーな観光地として旅館等も多く作られ、大いに栄えることになったのです。


2019年5月2日公開。

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