日本漢文の世界

 

写本日本外史





この写本について

1.購入の状況
 この写本は、平成10年(1998年)8月に、神戸三宮センター街にあった後藤書店で購入しました。帙がない裸本の状態で二十二冊が紐でかるく束ねてありました。
 後藤書店は、かつては関西における文化の発信源の一つとして重きをなした古書店です。私もよく利用させてもらっていましたが、平成20年(2008年)に当時80歳台だった店主に後継者がいないという理由で惜しくも閉店してしまいました。

2.写本の特徴
(1)大きさ・外観
 写本の大きさはいわゆる大本(B5相当)です。表紙は模様の入った深緑色の紙が用いられています。題箋も手書きで書かれています。表紙の右下に三段の分類ラベルが貼られていますが、ラベルには何も書かれていません。表紙は擦れている巻もあり、本文にもところどころ汚れがあるほか、どの巻も表紙の綴じ糸の部分にしっかりと折り目がついていて、よく読まれた本であるとの印象を受けます。
(私自身は、曝書など必要以外は、なるべく開かないようにして保管しています。)

写本日本外史
写本日本外史の書影

写本日本外史
写本日本外史の題箋

(2)蔵書印
 空白ページに「芝川文庫蔵書之印」の朱印が押されています。「芝川文庫」は明治時代に蔵書家として有名だった大阪の実業家・芝川又右衛門の蔵書です。

写本日本外史
写本日本外史の蔵書印

写本日本外史
写本日本外史の蔵書印

(3)用箋
 用箋には柱に「日本外史」と印刷された専用紙が用いられています。用箋は製本後の1ページ分が9行で、1行に18文字ずつ謄写されています。
※サイトの入力では、写本ページの一般的な附番法にもとづき、第1巻の本文1枚目の右側ページを「01-01-a」同左側ページを「01-01-b」のように附番しています。つまり最初の「01」が第1巻、次の「01」が袋とじになっている和本の本文の1枚目、「a」がその右側ページ、「b」が左側ページを表しています。

写本日本外史

(4)句読・訓点・校正
 全編にわたって朱筆で句読と訓点が施されています。書写誤りの校正も朱筆で行なわれています。段落の終わりを示す鍵括弧は朱筆ではなく、黒い墨で書かれています。
(5)使用された字体
 写本は全編が楷書で書かれています。この写本で用いられる楷書には、略体字が多く使用されています。当時の漢学者がどのような文字を書いて著作活動をしていたかを証する貴重な資料です。
※サイトの入力では、できるだけ略体字の再現につとめました。多くの略体字が我が国の当用漢字に採用されているため、かなりの部分を再現することができましたが、「繹」(写本では[糸+尺])「書」(写本の一部で[尺の下に日])、「興」(写本では「奥」の「米」の部分が「人」)のように、略体字のコードが存在しないものは、やむなく繁体字で表現しています。また、「应」(応)、「为」(為)、「图」(図)、「举」(挙)は、中国の簡体字にはコードが存在していますが、日本では一般的ではないため、日本の略体字で表現しました。このように書き文字を入力テキストで完全に再現することはできませんが、写本の画像を公開する予定なので、この問題を過度に追及する必要はないと考えています。

3.写本の由来
 この写本は、頼山陽の三男である頼三樹三郎の所持本であったとされています。その由来は巻之二十二の巻末にある藤沢南岳と倉田何庵の跋文に示されています。

 藤沢南岳の跋文は次のとおりです。(原文は漢文)

写本日本外史藤沢南岳跋
藤沢南岳跋(末尾部分)

外史の名、天下に噪(かまびす)し。また何ぞ喃々として称賛するを用いんや。勤王の業、維新の事、この著、実に力あり。しかもこの本は則(すなわ)ち頼三樹が伊丹の稲野氏に潜むの日に抄するところにして、中村良顕これを得て、以て吉田利兵衛に伝うと云う。吉田氏その授受の湮滅して明らかならざらんことを慮(おもんぱか)り、叡雲師を介して余にその後に題せんことを請う。余審(つまび)らかにこれを視れば、墨書にもし誤りあらば、朱批すこぶる確たり。頼氏父子の精神の存するところ、宜しくこれを宝重すべきなり。明治乙巳十月 南岳識(しる)す。

 倉田何庵の跋文は次のとおりです。(原文は漢文)

写本日本外史倉田何庵跋
倉田何庵跋(末尾部分)

大義名分を明らかにするは、歴史の本色なり。頼山陽先生の外史の如きは、その最たるものと謂(い)うべし。而(しこう)してこの二十二冊は、亡友頼三樹・中村蓼園二氏の手沢の存するところ。而して、ひとりは則(すなわ)ち先生の子、ひとりは則ちその子の友なり。皆よく義と分とを保てり。今これを披繙すれば、髣髴として声音容貌を聞見するが如く、懐旧の念、窮まり無きのみ。観る者、誰か欣賞せざらんや。倉田績。

 この写本日本外史は、頼三樹三郎が伊丹で謄写したもので、中村蓼生園(伊丹出身の歌人)に受け継がれ、さらに吉田利兵衛(不詳)に伝えられた、と藤沢南岳は書いています。写本の筆跡をみると二人の人間が謄写に携わったことが分かります。そのうちの一人が頼三樹三郎だったということでしょうか。(この点については未確認です。)この写本はその後「芝川文庫」蔵書となり、いかなる経路によるかは不明ながら神戸の後藤書店の店頭に出現し、縁あって私の手元に来ることになったのです。
 この写本は秘蔵されていた綺麗な本ではなく、よく読みこまれた本です。表紙の擦れや本文の汚れがそれを証しています。倉田何庵の跋文に「亡友頼三樹・中村蓼園二氏の手沢の存するところ」とありますが、この写本は彼らが手元において読んだ本なのです。中村氏からこの写本を譲り受けた吉田利兵衛さんが、特別な思いを持って珍重し、藤沢南岳と倉田何庵に跋文を依頼して、写本の由来を記し留めた気持ちはよく分かります。
 私は以前から、この由緒ある写本を何らかの形で公開したいと考えていました。WEBで公開することにしたのも、そのような思いからです。

2017年11月5日公開。

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