1.頼山陽の在世当時
頼山陽が脱藩事件後に監禁されていた居室(広島市内)
原爆で焼け落ちましたが広島県が昭和33年に修復しました。
2015年10月16日筆者撮影
写本日本外史巻全巻
2.日本外史の幕末期版本
(1)拙修斎叢書本『日本外史』 中西忠蔵が刊行(木活字本)
天保7年頃 (1836年頃)山陽没後4年頃
(2)川越本『校正日本外史』 川越藩主松平斎典公の命による出版(木版本)
弘化元年(1844年)山陽没後12年
(3)頼氏正本『日本外史』 頼又次郎(支峰)(木版本)
嘉永元年(1848年)山陽没後16年
※頼山陽は天保3年(1832年)に病没。
(1)は、江戸の中西忠蔵が得難い写本等をもとに木活字により出版していたもので、刊記もなく、目次や引用書目も省略されているとのことです。木活字本は、ページごとに組版を作り、予定部数を刷り終えると、組版を崩して別のページに活字を流用するため、刊行部数は少なくなります。この版がそれほど流布したとは考えられません。
(2)は、初の木版本です。木版本は量産できるため、この版により『日本外史』は普及しました。『日本外史』は頼山陽から楽翁・松平定信に献じられましたが、川越藩主・松平斉典(まつだいら・なりつね)が桑名に移封されていた楽翁の嫡子・松平定永よりこれを借覧して感激し、藩校博喩堂教授・保岡霊南に命じて校定させ、出版したものです。当初は藩校博喩堂の教科書とする目的で出版されましたが、松平斉典は全国の人士にも読ませたい意向で、芝神明町の泉屋に一般への販売を許可しました。これがたちまち評判となり、『日本外史』は大流行しました。年間1万部以上の売り上げがあったともいわれています。これは当時としてはベストセラーであり、版木が摩耗して何度も改刻されていることからも、その流行ぶりが分かります。
(3)は、頼山陽の遺族である広島・京都の頼家が共同で出版したものです。はじめは二家が別々に企画し、広島は河内屋、京都は秋田屋に依頼していましたが、出版の許認可権をもつ大阪奉行所の仲介で両家で共同出版にすることとなり、費用等を折半のうえ、河内屋・秋田屋の共同組合で出版しました。(坂本箕山『頼山陽』955ページ以下に当時の出版関係書類が掲載されています。)「頼氏正本」とは、川越版に対抗する気持ちで付けた呼称です。この版には、川越版にはない楽翁の序文と頼山陽作成の「日本外史例言」が掲載されていました。尊皇思想を鼓吹する『日本外史』は危険な書物として筆禍をこうむる懸念がありましたが、楽翁が「中道を得る」と太鼓判を押してくれた上に、楽翁の流れを汲む川越松平家から出版されて大流行したので、頼家でも出版することにしたものでしょう。
3.明治以後
明治に入り版権法が発布されると、川越松平家と頼家は明治8年(1875年)に分版(版権を折半すること)契約をしています。『日本外史』の版権が明治39年(1906年)に切れると、川越松平家は『日本外史』出版事業から撤退しました。
版権満了後に出版された『日本外史』関連本は、百種以上あり、まさに汗牛充棟です。それらについては、岩波文庫版(下巻)の解説に詳しく紹介されていますので、参照ねがいます。
『日本外史』は、明治以後も中学校の漢文教科書で教材として使用されていたため、戦前までの知識層には身近な作品であり続けました。
中村真一郎の『頼山陽とその時代』(546ページ)に次のような話が出ています。
明治初年生まれの私の外祖母は、文字通り無学な田舎の一老媼に過ぎなかった。しかし彼女は、中学生の私が漢文の副読本の『外史紗』を読み悩んでいる時、台所に立ったままで、私の読みかけた部分を蜒々と暗誦して聞かせてくれた。明治の初めの地方の少女は、『日本外史』を暗記することが初等教育であったのだろう。しかし戦後、尊皇思想は排斥され、漢文も軽視されるようになったため、作者・頼山陽の名とともに『日本外史』も世間から忘れ去られることになったのです。
それは『外史』が全国津々浦々に行き渡っていた証拠となると同時に、その文章が暗誦に適した、つまり人間の呼吸に自然に合致した、見事な雄弁調として成功していることを示しているだろう。近代の口語は、そうしたエロカンスの美において、遂にこの水準にまで達した文体を発見していない。
2017年11月5日公開。