書院の祠堂と祭壇
「藤樹先生補伝」の藤樹書院平面図では、祭壇のある十畳間を「祠堂(しどう)」と名付けています。祠堂とは位牌(いはい)を納めておく所をいうのですが、まさに祠堂の祭壇には中江家の位牌がずらりと並んでいます。
書院の祠堂と祭壇
書院の祭壇
S氏撮影
祭壇の配置図
「徳本堂」の勅額の下の祭壇には、たくさんの厨子(ずし)が並んでいます。厨子の中には位牌(いはい)が入っています。中央が藤樹夫妻のもの、左側が父母・祖父母、右側が三男常省らのものです。位牌のことを儒教では「神主(しんしゅ)」と呼ぶそうです。儒教の教義では命日になると死者の魂が帰ってきて、「神主」の中に入ることになっています。
ところで右端に「藤樹先生神位」「中江与衛門神位」という二つの「神位(しんい)」がありますが、この二つの「神位」はどういうものでしょうか。ボランティアの方にうかがったところ、一般人の位牌は「神主(しんしゅ)」であるが、官位のある偉い方の位牌は「神位(しんい)」というのだそうです。
明治40年(1907年)10月23日に中江藤樹は贈正四位の官位を授与されましたので、当時の村人が藤樹先生は官位をいただいて偉くなられたからと、この二つの「神位」を作ったのだそうです。しかし、なぜ二つも作ったのでしょうか。また、もとの「神主」と置き換えなかったのはなぜなのでしょうか。そのへんはボランティアの方もご存じないようでした。
同じ祭壇に藤樹の「神主」1基と、同じく藤樹の「神位」2基が並べて祀られているのは、一人の人物の位牌が3基もあることになり、異様なことのように思えます。しかし、ボランティアの方は2基の「神位」の方は誰も気にしていないと言っておられたので、藤樹の位牌はあくまで「神主」のほうであると認識されているようです。
神主の内部1
戒名が書かれた蓋を取ると、内部は空洞になっています。
神主の内部2
横に穴が開いているのが分かります。
この穴から神主の中へ魂が入ることになっています。
「神主」(「神位」)とはどのようなものかをボランティアの方が模型を使って説明してくださいました。「神主」(「神位」)の表面の戒名が書かれた部分(蓋)を外すと、中は空洞になっており、横にある穴から死者の魂が中へ入ることになっているそうです。命日になると、冥界から死者の魂が帰還して「神主」(「神位」)の中に入り、子孫らの礼拝を受けることになっているそうです。
書院の祭壇
「神主」(「神位」)を入れる厨子は通常は本当はこのように並べておくものではなく、本来は命日に当たる人の厨子を一つだけを出してくるものだそうです。厨子の上に置かれている黒い箱は、命日以外の日に「神主」(「神位」)をしまっておくためのものとのことです。
しかし今、祠堂の祭壇に中江家の「神主」(「神位」)がすべて並べてあるのは、当初の「祭祀」としての意味が今では失われて、「展示」という扱いになっているからなのです。
祠堂の扁額
それでは、祠堂に掲げられている扁額を見ていきます。
「徳本堂」の勅額
祭壇の上に掲げられた「徳本堂」の勅額は、光格天皇(1771-1840)が寛政8年(1796年)に藤樹書院に対して「徳本堂」の名を賜わり、右大臣・一条忠良(1774-1837)に命じて揮毫せしめられたものです(「藤樹先生補伝」:『藤樹先生全集』第5巻177ページ、211ページ)。
もともと表面全体に金箔が貼られていたそうですが、いまは金箔がはげて黒ずんでいます。
なお、「徳本」の二字は『孝経』から採ったものです。
藤樹規
祭壇の左側には、「藤樹規」のレプリカが展示されています。
「藤樹規」については、記念館のところに書いたので、そちらをごらんください。(→11.中江藤樹記念館( 6) 藤樹規)
儒教式祭祀の祭式
祭壇の右側には儒教式祭祀の祭式(式次第)が掲げてあります。この祭式にのっとって今でも藤樹の命日に、地元の有志が儒教式を模した祭礼を行っているそうです。
わが国は古代から仏教国で、宗教としての儒教は受容されず、このような儒教式祭礼を行っていたのは一部の儒学者だけであり、世間一般とは無縁のものでした。藤樹は儒学を極めようとするあまりに、その宗教的部分(儒教)の模倣にもこだわっていたようです。
2024年12月7日公開。