藤樹のもとへは、大洲時代の弟子たちが藤樹を慕って小川村へ来るようになり、小川村に逗留して学問をする者も増えてきました。また、藤樹は次第に地元の信頼を得て、村人たちが藤樹のもとに集い、講義を聴くようになりました。藤樹は酒屋を営みながら、身分の分け隔てなく、地元の人々やその子弟の教育に携わるようになりました。
寛永16年(1639年)、32歳の藤樹は有名な「藤樹規(とうじゅき)」を定めています。このとき、藤樹は自邸の庭に簡素な小屋を建てて、「藤樹規」を掲げ、講義の場所としました。のちの「藤樹書院」の原型です。
「藤樹規」では、「今の人、学をなす者は、ただ詞章を記誦するのみ。ここをもって吾が道の寄る所、言語文字の間を越えず。」と言って、ただ四書五経を丸暗記して物知りであることを誇り、立派な文や詩を作って名利を求めるペダンティックな学問ばかりがはびこることを嘆いています。
慢心や名利を嫌う藤樹は、このような学問のあり方を著書『翁問答(おきなもんどう)』の中で「贋(にせ)の学問」と呼んで非難しています。贋の学問は、ただ知識をひけらかして悦に入るだけの下らぬものです。「藤樹規」は、そのような贋の学問ではなく、「聖人立教の宗旨を推本」すること、『翁問答』の用語でいえば「正真(しょうじん)の学問」をやっていくとの宣言です。
記念館展示 藤樹規
S氏撮影
藤樹書院にあるレプリカ
文字の感じがよく分かります
唐様の楷書の例「欧陽詢書蘭亭記」
国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子:info:ndljp/pid/1187092
唐様の楷書の例「明拓顔真卿多宝塔碑」
国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子:info:ndljp/pid/1183433
「書は人なり」と言われますが、書跡は書いた人の人柄をよく表わします。「藤樹規」は、楷書で書かれていますが、伝統的な楷書(「唐様(からよう)」と言われる中国風の書体)ではなく、明朝体のような書体で書かれています。なぜ明朝体のような書体で書かれているかというと、江戸時代初期の学者は、伝統的な楷書(唐様)を習得する機会がなかったからです。
明朝体が使用された木版本で経書を学んでいた藤樹は、明朝体を経書で使われる謹厳な書体と考えて、まねたのではないかと思われます。
2024年12月7日公開。