藤樹が心を込めてしたためた辞職嘆願書は、家老・佃氏を通じて主君・加藤直泰に提出されました。しかし、主君から致仕の許しが出ることはありませんでした。悩んだ挙句、藤樹は「脱藩」という非常手段に出ます。寛永11年(1634年)藤樹27歳のときです。
「脱藩」とは、藩に仕える武士が藩主に無断で藩から脱出することで、重罪とされていました。追っ手が放たれ、逮捕されて死罪になることもありました。
しかし、藤樹が罪に問われることはありませんでした。その理由に関しては、主君が藤樹の人徳を分かってくれていたからだとか、主家がお家騒動中で藤樹の脱藩どころではなかったからだとか、いろいろな説があります。
藤樹はしばらく京都に滞在して主君からのご沙汰を待っていましたが、何のおとがめも無いことが分かると、ようやく郷里の母の許(もと)へ帰ったのでした。
記念館展示 酒甕
帰郷後、藤樹は酒を仕入れてきて村中で小売りする酒屋を始め、その僅かな利益で母親を養いました。藤樹が小川村に帰り、酒屋を始めたときに使っていた酒甕(さかがめ)が、記念館に保存されています。当時この地方には饗庭伝兵衛(あえば・でんべえ)という酒蔵があり、藤樹はそこで仕入れた酒を村人たちに小売りしていました。
酒を買いに来た村人に対して藤樹は「今日はどのような仕事をしましたか」と問いかけ、その仕事の難易度によってその村人に売る酒の量を考えたそうです。
講義などで藤樹が売り場に出られないときには、無人販売をしていました。酒を買いに来た人は、酒甕から自分で量をはかって持参した徳利に酒を入れ、代金を置いていったのです。(「藤樹先生補伝」:『藤樹先生全集』第5冊140ページ、205ページ)
2024年12月7日公開。