日本漢文の世界

 

中江藤樹の講堂跡・藤樹書院訪問



9.中江藤樹記念館(4) 辞職嘆願書

 藤樹が家老を通じて主君に提出した辞職嘆願書はお家流の草書で書かれており、なかなか達筆です。その文章は母親への思いを切々と訴えて胸に迫るものがあります。
 原文は候文(そうろうぶん)で読みにくいため、高島市教育委員会発行の小学校副読本『藤樹先生』に掲載されている現代語訳を引用します。

辞職嘆願書
記念館展示 藤樹先生辞職嘆願書

(前略)この前も申し上げました通り、一つには、私は二、三年前から病気にかかりまして、次第に人並みに勤めにくい有様で、まことに困っています。また一つには、故郷の母が、十年もの間、一人で寂しく暮らしています。私のほかに、母を養う子もなく、また、朝夕の世話を頼むほどの親類もありません。四、五年前から、飢えや寒さに苦しんでいます。それで、こちらの土地へ連れて来たいと思いまして、一昨年お許しをいただいて、迎えに参りましたが、もはや、老人のみで、また病気がちでありますから、村の中さえ自由に歩くことができません。その上、生まれ故郷を離れて遠い国へ行くことは、たとえ、飢え死にしようともできないことだと固く申しますので、しかたなくそのままにしておいて、こちらへ帰って参りました。私は、父母と祖父母と合わせて四人の親を持ったわけですが、そのうち三人は幼い時に亡くなり、母一人子一人となってしまいました。その上、母が生きているのもここ八、九年かと思われます。おひまをいただき、故郷へ帰りまして、母が生きている間はどんなことをいたしましても養い、また、もし母が亡くなりましたならば、この土地に帰り、あなた様にお頼み申して、お召し抱えくださるようにしていただければ、再び御奉公いたしたいと固く思っております。このほかには何の考えもありません。
 以上、申し述べましたことが、その場限りの偽りで、実際は他の藩に仕えて、立身出世したいという望みで、こんな風に申し立てるのだとお思いになるかもしれませんが、この前にも度々申し上げましたとおり、もし、そのような考えが少しでもありましたら、立ち所に天罰が当たり、母にも二度と会えないことになると思います。このようにまでお願い申しますことをお聞き届けくださいまして、殿様へ間違いのないように申し上げてくださいますよう、ただただ、お願いいたすものでございます。
 三月五日
           中江与右衛門
 佃小左衛門様

(高島市教育委員会発行の小学校副読本『藤樹先生』39~41ページ。一部かなを漢字に直して引用。)

辞職嘆願書
辞職嘆願書
記念館展示 藤樹先生辞職嘆願書

 この辞職嘆願書は、蜀漢・西晋の李密(りみつ)が晋の武帝(司馬炎)に奏上した『陳情表』(『古文真宝後集』などに所収)を彷彿とさせ、人の心を打つものがあります。李密は、晋の武帝(司馬炎)から「太子洗馬」(皇太子の御所の長官)の職に就くよう命ぜられますが、老母が生きている間はどうかご勘弁くださいと皇帝に対して切々と訴えました。藤樹はそれと全く同じ思いで致仕(ちし=辞職)を願い出たのです。
 展示されている書跡は、藤樹が家老の佃氏に渡した原本ではなく、控えです。末尾に藤樹自身が由来を書き付けています。
 由来には、主君である「織部様」に上申するために、家老の佃氏(「小左殿」と表記)が藤樹に辞職嘆願書の作成を命じた旨が書かれています。
 「織部様」とは、大洲藩主・加藤泰興(かとう・やすおき)の弟・加藤直泰(かとう・なおやす)のことです。当時「織部正」(おりべのかみ)という官位についていました。
 当時、藩内分知(領地分け)により直泰は新谷(しんや)藩主となり、藤樹も新谷藩の所属となっていました。そのため、藤樹は直泰に辞職嘆願書を提出したのです。



2024年12月7日公開。

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