元和8年(1622年)15歳のときに祖父が亡くなり、藤樹は家督を相続しました。
寛永元年(1624年)17歳のときに、藤樹は京都からきた学僧から『論語』の講義を受けました。しかし、その学僧が京都へ帰ってしまうと師匠がいなくなり、当時入手した『四書大全』を、藤樹は百遍も熟読して、その内容を独力で理解したのです。※
※江戸時代の初期には、まだ儒学は流行するには至っていなかったため、入門書などはなく、独学は極めて困難であり、文字通り「読書百遍」の血のにじむような努力が必要だったと考えられます。江戸時代も中期になると『経典餘師(けいてんよし)』のような庶民向けの入門書が出版されるようになります。これは、原文、読み仮名付き訓読文、和訳文を並べたもので、現代において明治書院が発行している『新釈漢文大系』の原型のような本でした。江戸時代中期以降には、こうした入門書がシリーズものとして出版されるほど儒学が流行していたことは、驚くべきことです。
当時の武家社会では、まだ戦国の余臭があり、学問をすることは軟弱と見られていました。そのため昼間から読書することは、はばかられました。藤樹は昼間は同僚たちと武術の稽古に精を出し、もっぱら夜中に灯火のもとで読書していたのです。
寛永6年(1629年)22歳のとき、藤樹が来たのを見て、「孔子殿がお出ましだぞ」と揶揄する者がありました。藤樹は激怒し、「孔子殿とは、私が学問をするのをそしって言うのか。学問こそは武士道だ。おぬしごとき文盲は奴隷と同じだ」と責めると、その剣幕に押されて、その者は許しを乞いました。藤樹がただのおとなしい青年ではなかったことが分かります。
その寛永6年(1629年)に、幕府の御用学者である林羅山(はやし・らざん、1583-1657)と弟の信澄が家康の命令により剃髪し、羅山は「民部卿法印」、信澄は「刑部卿法印」という僧侶の最高位を授かりました。羅山は自分が儒者でありながら僧侶の姿になったことについて「これは我が国の風俗に従ったものだ」と弁解しました。これに対して藤樹は寛永8年(1631年)24歳のとき、『林氏剃髪、受僧位辨』(『藤樹先生全集』第1冊121ページ以下)という文章を漢文で書いて、激越な調子で羅山を非難しています。藤樹には、儒者としての矜恃(きょうじ=プライド)を棄てて権力者におもねる羅山の曲学阿世がどうしても許せなかったのです。
藤樹はこのように20代前半の頃にはすでにいっぱしの学者であり、彼のもとには同年代の青年たち数名が藤樹の学徳を慕って集まっていました。この人たちはのちに藤樹が近江へ帰ってからもたびたび訪れることになるのです。
記念館展示 藤樹先生ゆかりの地
四国の大洲で仕官していた藤樹はなぜ故郷の小川村にもどることになったのでしょうか。
寛永9年(1632年)25歳のとき、父が寛永2年(1625年)に亡くなってから、母親がひとり田舎で暮らしていることを心配し、母親を大洲に呼び寄せるために休暇をもらって帰省しました。しかし、藤樹の必死の説得にもかかわらず、母親は住み慣れた小川村を離れることを断乎拒否しました。藤樹は悶々としながら帰途につかざるを得ませんでした。
帰りの船上で、藤樹は喘息(ぜんそく)の激甚な発作に襲われ、死に直面します。九死に一生を得たものの、その後、喘息は一生なおらぬ持病となり、藤樹を死ぬまで苦しめました。
寛永11年(1634年)、27歳の藤樹は思い悩んだ末に自身が藩の役目を辞職して小川村に帰り、母親と共に暮らすことを決意しました。
このときに家老の佃氏に渡した辞職嘆願書の控えが、藤樹記念館に展示されています。
2024年12月7日公開。