日本漢文の世界

 

中江藤樹の講堂跡・藤樹書院訪問



7.中江藤樹記念館(2) 藤樹の少年時代

藤樹先生年譜
藤樹先生年譜
藤樹先生年譜(岡田氏本) 藤樹頌徳会発行

 ここからは、おもに『藤樹先生年譜』(岡田氏本)(良知館で購入可。『藤樹先生全集』第5冊7ページ以下にも掲載)に沿って、藤樹の生涯を概観してみましょう。
 中江藤樹(1608-1648)の祖父・吉長(よしなが)は小川村の農民でしたが、戦国時代末期に小川村からほど近い高島城の城主であった加藤光泰(かとう・みつやす)の家臣となり、武士となりました。しかし、その息子である藤樹の父・吉次(よしつぐ)は父親の跡を継いで武士になることを拒み、小川村で農業を続ける道を選びました。
 藤樹は慶長13年(1608年)に、小川村で生まれました。関ヶ原の戦い(1600年)から8年後、江戸幕府の開府(1603年)から5年後です。まだ戦国の余燼(よじん)がくすぶっていました。
 元和2年(1616年)、9歳(以下年齢は数え年)のとき、祖父の後を継いで武士となるため、藤樹は祖父の主君・加藤家の任地である米子(よなご=現在の鳥取県米子市)へと行くことになりました。祖父の決定に父は反対しましたが、聞き入れられず、藤樹は父母のもとを去り、祖父母と暮らすことになりました。
 元和3年(1617年)10歳のとき、主君の国替えにより藤樹らは四国の大洲(おおず=現在の愛媛県大洲市)に移りました。このころ藤樹は教師について『庭訓往来』や『貞永式目』を学習し、大人顔負けの理解力を示しました。

藤樹先生事状
藤樹先生事状 藤樹先生全集 第5(別)冊
国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子:info:ndljp/pid/1226462

 元和4年(1618年)11歳のときに『大学』(朱子学の根本経典である「四書」の一つ)を読み、「人は努力すれば聖人になることができる」と確信し、歓喜の涙を流したといわれています。これは有名な話ですが、もっとも信頼できる『藤樹先生年譜』(岡田氏本)には記載がなく、『会津本藤樹先生年譜』(『藤樹先生全集』第5冊40ページ以下)と『藤樹先生事状』(『藤樹先生全集』第5冊71ページ以下)に載っている話です。

 元和6年(1620年)13歳のときに、ある事件が起こります。
 この年に飢饉がおこり、風早郡の長官であった祖父・吉長は、村人が飢えて逃亡するのを止めようと躍起になっていました。そのとき、多くの村人を引き連れて逃亡しようとしていた盗賊の首領・須卜(すぼく)とその妻を吉長は殺害しました。須卜の息子は深くこれを恨み、吉長を殺して仇を討とうとスキを狙っていました。
 そして九月下旬、須卜の息子は徒党の者数人とともに吉長邸を襲撃します。吉長は賊の襲撃計画を事前に察知し、彼らを一網打尽にする計略を考えました。
 吉長は藤樹に「今は天下太平で武功を建てる機会がない。いま賊が来るのはありがたい機会だ。わしが賊を殺すので、お前は首を取るがよい」と言い聞かせました。
 そして家来らに鉄砲を持たせて入り口を固めさせ、「賊が家に入るときにはまだ撃ってはならない。賊が家から逃げ出すときに撃つように」といましめました。賊を家の中に招き入れて皆殺しにする計画だったのです。
 ところが、夜半に賊がやって来たとき、家来らは焦って鉄砲を発射してしまいました。賊は驚いて逃走し、吉長は懸命に追いかけましたが、とうとう逃げられてしまったのでした。
 このとき藤樹は数え13歳ですから、現在では小学校6年生の年齢です。しかし、少しも臆することなく、賊を討たんとの覚悟が顔にあらわれていました。これを見た祖父・吉長は、頼もしく思ったのでした。
 これは重大な事件ですが、藤樹関係の本ではほとんど省略されています。飢餓に苦しむ人民への為政者による非情な弾圧に、少年とはいえ藤樹も加担しているからです。
 しかし、『藤樹先生年譜』はこの事件について誇らしげに書いています。当時の価値観に沿ってみれば、藤樹は武士の跡継ぎとして果たすべき責務を立派に果たしているからです。

 また、こんなこともありました。元和7年(1621年)14歳のとき、家老の大橋氏が祖父の家を訪問し、夜通し座談をしました。藤樹は「家老のような身分の高い方は、きっと普通の人とは違うだろう」と思い、壁の向こうでじっと聞き耳をたてていました。しかし有用な話は全くなく、藤樹はがっかりしたのでした。
 社会的地位はその人の賢愚とは無関係であることを、このとき藤樹は初めて知ったのです。



2024年12月7日公開。

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