書院の玄関
「藤樹先生補伝」の藤樹書院平面図では、書院内部へ入ったところの七畳半の応接間を「玄関」と名付けています。
この部屋には立派な扁額や透かし彫りが飾られています。
書院玄関の扁額など
「藤樹書院」の扁額
「玄関」に入り正面を見上げると「藤樹書院」と書かれた大きな扁額があります。これは第六代大溝藩主・分部光永の次男・分部昌命(わけべ・まさなが)が宝暦11年(1761年)に藤樹書院に寄贈したものです。(「藤樹先生補伝」:『藤樹先生全集』第5冊211ページ、「湖学雑纂」:『藤樹先生全集』第5冊361ページ)
書院玄関の左側
書院玄関左側の透かし彫り
さて、そこで左側を見ると、不思議な透かし彫りがあります。これは「致良知」の三文字をデザインしたもので、明治13年(1880年)の大火で焼失した旧書院の欄間に掲げられていたものとのことです。
書院の入り口上にある扁額
書院の入り口の上の欄間には、「致良知」の扁額がかかっています。これは、寛政9年(1797年)に光格天皇(1771-1840)が「徳本堂」の勅額を賜った際に、侍読の伏原宣光(1750-1828)が書して寄附せられたものとのことです。(「藤樹先生補伝」:『藤樹先生全集』第5冊211ページ)
これは明治13年(1880年)の大火で焼失した旧書院の玄関に掲げられていたそうです。
右側には安原貞平の「藤樹先生書院」という文章が掲げてある
玄関右側には安原貞平(やすはら・さだひら、1698-1780)が書いた「藤樹先生書院」という文章が掲げてあります。彼の父親は藤樹の子・常省の弟子でしたが、彼自身は藤樹学とはかけ離れた学風である京都の伊藤東涯(いとう・とうがい、1670-1736)に師事し、霖寰(りんかん)と号しました。(「藤樹先生補伝」:『藤樹先生全集』第5冊173ページ)
藤樹の死後、大溝藩は藤樹門下に解散を命じましたが、死後70年をへた享保年間に至って、ようやくその禁令が解け、藤樹書院での講義が再開されていました。このころ中心者の一人として活躍した安原貞平は、師の伊藤東涯を藤樹書院に招いています。
伊藤東涯の対聯
伊藤東涯の対聯
S氏撮影
玄関正面の「藤樹書院」の扁額の左右の柱には、伊藤東涯(1670-1736)が書いた竹の対聯(ついれん)が掛けられています。これは享保6年(1721年)8月に東涯が安原貞平の案内で藤樹書院を訪問したときに書いたものです。書かれているのは『詩経』と『書経』の句です。(「藤樹先生補伝」:『藤樹先生全集』第5冊211ページ)
神之格兮不可度
夫無常享享克誠
神の格(いた)るは、度(はか)るべからず(『詩経』「大雅」)
(訳)神の降臨がいつになるかは全く分からない。
夫(そ)れ常(つね)に享(う)くること無く、克(よ)く誠(まこと)なるに享(う)く(『書経』「太甲下」)
(訳)神は祭祀を常に納受されるわけではなく、誠心誠意をもって尽くす場合だけ納受される。
2024年12月7日公開。