記念館展示 旧藤樹書院の模型
記念館の中央には、ひときわ目を引く展示があります。旧藤樹書院の模型です。
藤樹の晩年には弟子の数も増え、それまで講義を行っていた小屋では手狭になっていました。そこで弟子たちが協力して藤樹の自宅敷地内に建てたのが旧藤樹書院です。しかし、慶安元年(1648年)、完成した藤樹書院において木鐸(ぼくたく)を振るおうとしていた矢先に、悲劇が起こりました。
藤樹が喘息の激甚な発作で急死したのです。享年41。旧藤樹書院の建立からわずか半年後でした。臨終近きを悟った藤樹は、机によりかかって端座し、「この道の任は誰にかある。無きかな!」と自身の学問に後継者がないことを嘆いたと伝えられています(「藤樹先生行状」:『藤樹先生全集』第5冊60ページ)。突然訪れた臨終を彼自身受け入れることができず、苦悩と執着をあらわにせざるを得なかったのです。
記念館展示 旧藤樹書院の模型
藤樹が亡くなったあと、備前藩主・池田光政(1609-1682)は熊沢蕃山を使者として弔問させました。その後、長男の虎之助、次男の鍋之助は蕃山の世話で池田光政に仕えますが、虎之助は23歳、鍋之助は20歳で夭折しました。
後妻・布里(ふり)は、藤樹の死後、中江家を去って実家に戻り、他家に再嫁しました。
三男の弥三郎は後妻・布里の子で、生後まもなく母親が中江家を去ったため、みなしごとなり、他家で養育されたあと、池田光政に仕えています。その後、対馬藩にも仕えましたが、晩年には小川村へ帰り、宝永6年(1709年)に62歳で亡くなりました。常省(じょうしょう)先生と呼ばれていました。
藤樹が孝養を尽くした母親は藤樹の死後20年ちかく生存し、寛文5年(1665年)に88歳で亡くなりました。藤樹の死後、母親の世話をしていたのは藤樹の妹でした。この二人の生活を池田光政は援助していました。(「藤樹先生行状」「藤夫子行状聞伝」:『藤樹先生全集』第5冊による)
このように藤樹の死後、藤樹の家族は離散してしまったのでした。
記念館展示 旧藤樹書院の模型
藤樹の死後まもなく、思いもよらぬ事件が起きます。大溝藩が藤樹門下に解散を命じ、藤樹書院での講義を禁じたのです。(「藤夫子行状聞伝」:『藤樹先生全集』第5冊98ページ)
弟子の中川謙叔は、大溝藩の措置に対して、藩主を非難する文章を残しています(上記の「藤夫子行状聞伝」を参照)。
藤樹は片田舎の民間学者に過ぎませんでしたが、弟子の熊沢蕃山の活躍により、本人は望んでいないにもかかわらず、全国的な名声を得ていました。ところが、幕府の儒官・林羅山は、陽明学に傾倒する藤樹や弟子の熊沢蕃山に対して、あからさまに反感を抱いていました※。大溝藩の突然の禁令には、そうしたことが背景にあると思われるのです。
※林羅山は『草賊前記』という著作の中で蕃山をキリシタン呼ばわりして排斥しています。(→35.藤樹書院(13) 古門-蕃山入門懇願の跡)
江戸幕府はその初期から幕末に至るまで、苛烈な思想弾圧を繰り返し行っています。熊沢蕃山も晩年に著書『大学或問』が筆禍にかかり、幕府の命令で幽閉(1687年)されています。
幕府は民間人も容赦なく弾圧しました。在野の学者・山県大弐(やまがた・だいに、1725-1767)が、尊王論を唱えて死罪に処せられた明和事件(1767年)は顕著な例です。弾圧は幕末まで続き、幕末の蛮社の獄(1839年)や安政の大獄(1858年)でも在野の学者が処罰されています。江戸時代は言論の自由のない過酷な時代だったのです。
そして、藤樹門下に対する禁令は享保(きょうほう)年間(1716年~1736年)に至るまで半世紀以上にわたって続き、このために藤樹門下は壊滅し、いわゆる藤樹学の学統は途絶えてしまいました。
こうして、藤樹の家族も門下も離散してしまった後、小川村には藤樹書院と藤樹の墓だけが残ったのです。
以上で、記念館の見学を終わります。
2024年12月7日公開。