日本漢文の世界

 

中江藤樹の講堂跡・藤樹書院訪問



35.藤樹書院(13) 古門-蕃山入門懇願の跡

古門の跡
古門の跡
「藤樹先生補伝」『藤樹先生全集』第5冊197ページ
国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子:info:ndljp/pid/1226462

古門の跡
古門の跡には「熊沢蕃山入門懇願の跡」の看板があります。

 かつて屋敷の入り口があったあたりには、熊沢蕃山(1619-1691)が藤樹に入門しようとして断られ、それでも入門を求めて二日二晩座り続けた場所があります。見取図では「古門の跡」とあるあたりです。
 蕃山は、旅籠での同宿者から、馬方の中西又左衛門の話を聞いて藤樹への入門を志したと言われています。
 それは、馬方の中西又左衛門が、乗客であった飛脚が鞍にくくりつけたまま忘れてしまった大金を、わざわざ30キロ以上の道のりを引き返して返却したという話です。主君の金を失って窮地に陥っていた飛脚は大喜びして又左衛門に礼金を渡そうとしましたが、又左衛門は「持ち物を持ち主に返すのは当然のことで、分に過ぎた礼金を受け取ることは藤樹先生の教えに反する」と言って、礼金の受け取りを拒んだというのです。(「藤樹先生補伝」:『藤樹先生全集』第5冊137ページ)

 当時でいえば低い身分の村人たちまでが藤樹の教えに感化されて道徳を実践していることに蕃山は大いに驚嘆し、「藤樹先生こそ本物の師匠だ」と居ても立ってもいられなくなり、小川村へ急行したのでした。
 しかし、入門を求める蕃山を、藤樹は門前払いにします。
 蕃山が入門しようとしたのは、藤樹が34歳の時(寛永18年、1641年)で、朱子学の限界に気付き、陽明学への関心を持ち始めた頃でした。『藤樹先生年譜』には、蕃山の入門志願について、「先生その志の真偽を知らず。故に固くこれを辞す。」とあります。
 蕃山はそれまでの弟子たちのように縁故を頼ってきたわけではなく、巷での藤樹の評判を聞いて入門を願い出てきた人でした。そのような動機は、藤樹には軽薄に思えたのかもしれません。また、蕃山の性格も、学問の志向も、藤樹とは全く異なります。そうしたことから相容れないものを感じて当初は入門を拒絶したのではないかと思います。
 入門を拒絶された蕃山は、藤樹の家の前に二日二晩座り込みました。見かねて取りなしたのは藤樹の母親でした。母親の取りなしに、藤樹もついに折れて蕃山の入門を許したのでした。
 蕃山が藤樹のもとで学んだのはわずか八ヶ月ほどでした。しかし、そのわずかな期間に、師弟間でゆるぎない信頼が生じ、藤樹は去りゆく蕃山に心のこもった漢文の文章「送熊沢子序」(『藤樹先生遺稿』に所収。『藤樹先生全集』には未収録。)を書いて手向けています。
 その後、蕃山は備前岡山藩主・池田光政(1609-1682)に仕え、大きな業績を残しました。蕃山の業績は教育行政から土木工事など多岐にわたり、彼の名は全国に知れ渡りました。そして蕃山の称揚もあり、師匠である藤樹の評判も全国に広まったのです。

 備前岡山藩主・池田光政は、藤樹を敬慕し、藤樹が死去したときには蕃山を使者として弔問させ、藤樹の息子たちを召し抱えるなど、藤樹の遺族への援助もしています。
 内村鑑三の『代表的日本人』には、池田光政が自ら小川村に藤樹を訪ねてきたことが書かれています。そのとき藤樹は村の子供たちに『孝経』を講義している最中で、「講義が終わるまで玄関でお待ちください」と玄関で光政を待たせ、雄藩の大名にもかかわらず一般人と同じ扱いをしたとのことです。村井弦斎の『近江聖人』の小説にも同じ話が載っています。藤樹と光政との会見は本当にこんなふうだったのでしょうか。
 第一の不審は、これほど重大な会見について『藤樹先生年譜』には何も書かれていないことです。
 中江藤樹記念館発行の『中江藤樹入門』(68ページ)には、備前岡山藩士・三村永忠の『有斐録』と、同じく備前岡山藩士・湯浅常山の『吉備烈公遺事』に、池田光政と藤樹が大津で会見したとの記事があることが紹介されています。光政はやはり小川村に来たわけではなかったのです。
 ところが光政自身が書いた『池田光政日記』にはその大津での会見についても全く記載されていないそうです(同書70ページ)。そのため、会見が史実かどうかは今日では疑問とされているのです。同書は、もし実際に会見が行われたとすれば、光政が参勤交代の途中大津に逗留していた正保4年(1647年)3月ではないかと推測しています。

草賊前記
「草賊前記」『事実文編 第四』503ページ
国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子:info:ndljp/pid/990282

 蕃山は備前岡山藩において大きな改革を成し遂げましたが、保守派の重臣たちとの間で軋轢(あつれき)を生ずることになり、幕府からも目をつけられることになりました。
 幕府の儒臣・林羅山は陽明学を奉ずる藤樹や蕃山を憎悪し、とくに蕃山を口を極めて攻撃しました。林羅山は、その著作『草賊前記』(『事実文編 第四』501ページ以下に「逸名(作者不明)」として収録。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子:info:ndljp/pid/990282)の中で、由比正雪の「慶安の変」(1651年)は、蕃山の説く「耶蘇の変法」に惑わされた者たちが起こした事件だとして非難しています。蕃山をキリシタン呼ばわりして排斥しているのです。
 幕府からもにらまれているとなると、備前岡山藩としても蕃山を雇っておくことは難しくなります。明暦3年(1657年)、このような不穏な動きの中で、蕃山はついに失脚し、岡山を離れざるを得なくなりました。
 その後、蕃山は何度も幕命により幽閉され、最後は貞享4年(1687年)69歳のときに著書『大学或問』が筆禍にかかって千葉の古河に幽閉されて、その地で一生を終わりました。享年73。

 もっとも有力な弟子・熊沢蕃山が思想弾圧によって表舞台から退場させられたことは、藤樹学の継承にとって大きな打撃となりました。他の高弟たち、中川謙叔(なかがわ・けんしゅく、1624-1658)は35歳で夭折、淵岡山(ふち・こうざん、1617-1687)は師の藤樹と同じく民間に隠れていたため世に知られず、藤樹学はついに絶学となってしまったのです。



2024年12月7日公開。

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