記念館展示 藤樹の衣服
記念館には藤樹が当時着ていた衣服が展示されています。
衣服などの布類は虫がつきやすく、保存が難しいので、400年近く前の衣服が残っていること自体が驚きです。地元の方々が保存のために並々ならぬ努力してきたからこそのものです。これを見ても、いかに藤樹が地元の人々から慕われていたかが分かります。
残された衣服から推定される藤樹の身長は170センチメートルほどです。当時の男性の平均身長は155センチメートルくらいなので、藤樹は当時としてはかなりの偉丈夫です。
記念館展示 藤樹の裃(かみしも)
こちらは、小川村の領主である大溝藩主・分部嘉治(わけべ・よしはる)公から下賜された裃(かみしも)で、分部家の家紋がついています。
『藤樹先生年譜』には、藤樹39歳、正保3年(1646年)の項に、「この年、郡主・分部伊賀守(いがのかみ=官位)を見(まみ)ゆ。先生の徳あるを聞き見んことを乞う。邑宰(ゆうさい=村長)先生に強(し)ゆ。先生固く辞す。のちやむことを得ずして見(まみ)ゆ。先生を待(たい)すること頗(すこぶ)る礼あり。然れども、ついに道を問うことなし。」とあります。
分部公は藤樹を居城に招き、礼を尽くして接待はしたものの、「道を問うことなし」、つまり深く話を聞いたり、師事したりはしませんでした。表面的な接触だけで終わったということです。
その2年後の慶安元年(1648年)に藤樹が急死すると、大溝藩はただちに藤樹門下に解散を命じ、藤樹書院での講義を禁じました。(「藤夫子行状聞伝」:『藤樹先生全集』第5冊98ページ)
恐らく、分部公は幕府の思想統制の動向を見て、幕府からのお咎めがある前に先手を打って藤樹門下を解散させたのだろうと思いますが、死の2年前に藤樹を居城に招いていたのも、危険人物かどうかを確認するためだったのかもしれません。
2024年12月7日公開。