日本漢文の世界

 

中江藤樹の講堂跡・藤樹書院訪問



18.中江藤樹記念館(13) 捷径医筌

鑑草
捷径医筌(藤樹先生全集 第4冊)
国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子:info:ndljp/pid/1226444

【捷径医筌】

 記念館に展示はされていませんが、藤樹の著作のうち大きな部分を占めるものに医書があります。その代表的なものが『捷径医筌(しょうけい・いせん)』です。本書を見ると、藤樹が当時における最高峰の医学知識を持っていたことが分かります。
 『捷径医筌』述作のきっかけとなった人物は、塩谷宕陰の『中江藤樹伝』にも登場している大野了佐です。
 知的障がい者だったとおぼしき大野了佐は、その障がいのゆえに家督を継がせてもらえず、賎業に従事させられそうになっていました。了佐はそれを恥じ、藤樹に医者として自立できるようにしてほしいと頼み込みました。藤樹は了佐を見捨てることなく、その教育に並々ならぬ情熱をそそぎました。しかし、了佐は医書を何度読んでも一句も覚えられませんでした。それでも彼は努力を続け、藤樹が近江へ帰ると、近江まで追ってきたのでした。
 了佐が大洲から来たのは寛永15年(1638年)、藤樹31歳のときでした。藤樹は了佐のために中国の医書を抜粋し、『捷径医筌』六巻を述作しました。
 「捷径」とは「ちかみち」、「医筌」は「医学の手引き」というほどの意味です。つまり『捷径医筌』の書名は今日風にいえば『早わかり医学の手引き』と言ったところです。この書名だけ見れば薄い入門書やハウツー本を想像しますが、実際の『捷径医筌』はかなり大部な本です(木版600枚。『藤樹先生全集』第4冊87~485ページ。上下二段組みで400ページ近くあります。)。しかも全編が漢文で書かれています。これを知的障がい者の了佐が学びきったとすれば、その努力は並大抵のものではありません。藤樹はこのような愚鈍な弟子に対しても情熱を注いで教育したのです。(「門弟子並研究者伝」:『藤樹先生全集』第5冊281ページ)

 藤樹の著作は、『藤樹先生全集』(原本の出版元は藤樹書院、岩波書店・弘文堂書店の復刻版あり)第1冊から第4冊までにまとめられています(第5冊は伝記や史料)。大病をわずらい、41歳で亡くなった人が、病をおしてこれだけの著作をなした情熱は尊敬に値します。



2024年12月7日公開。

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