日本漢文の世界

 

中江藤樹の講堂跡・藤樹書院訪問



17.中江藤樹記念館(12) 鑑草

鑑草
記念館展示 鑑草
S氏撮影

【鑑草】

 藤樹が『翁問答』の代わりに出版させた『鑑草(かがみぐさ)』は、藤樹が生前に出版した唯一の本で、藤樹のもう一つの代表作とされています。内容は女性を訓示するための説話集です。
 本書の序文では、女性が嫁ぎ先の義父母や夫に仕えることは「明徳仏性(めいとく・ぶっしょう)の修行」、「後生(ごしょう=来世)仏果を得る修行」であり、一生懸命に勤める女性にはよい報いがあり、おろそかにする女性には天罰が下ると説いています。仏教を強烈に排斥した『翁問答』と同じ作者が書いているとは、にわかに信じがたいほどです。
 『鑑草』は、明(みん)の顔茂猷(がん・ぼうゆう)が書いた説話集『迪吉録(てききつろく)』から選んだ説話を翻訳・編集し、評を付したものです。しかしながら、現代の感覚で読むと共感できない部分も多くあります。
 たとえば、姑に犬の糞を食わせて虐待した悪妻が、その報いで頭部が犬になる話(巻之一14,15)、前夫の財産を相続して後夫と結婚した妻が前夫の怨霊に祟られて死ぬ話(巻之二5,6)、継母にいじめ殺された継子が怨霊となって継母の実子を取り殺す話(巻之五7,8)など、おぞましい怪談が多いのです。(番号は岩波文庫版による。)
 それから、女性の不貞には厳しいが、男性側の不貞は容認しているところもあります(巻之二20など)。
 藤樹は家族が一致協力して、一家和睦の理想の家庭を実現するには、どのような心がけが必要かを教えたいと思っていました。そして家族の要(かなめ)となるのは夫ではなく妻であるから、まず妻が善行をして、夫や家族を感化するべきである(巻之六8)と考えていたのです。

 藤樹自身の家庭はどうだったのでしょうか。
 藤樹は寛永15年(1638年)30歳のときに、当時17歳の高橋久子と結婚しています。この妻は賢夫人で、藤樹をよく支え、二男をもうけました。
 久子は容貌がひどく醜かったので、藤樹の母親は世間体を気にして、妻を離縁するようにと藤樹に何度も勧めました。ところが、母親の言うことには絶対に逆らわない藤樹が、久子の離縁だけは絶対に応じませんでした。久子は容貌が醜いというだけで、ほかにはまったく欠点がなかったからです。この話は当時女性は器量ばかりが重んじられ、物のように扱われていたことの一つの証左ですが、藤樹がそうした風潮にあらがい、妻・久子を守ったことは高く評価されるべきことだと思います。
 正保3年(1646年)藤樹39歳の時に、久子はわずか26歳で亡くなってしまいました。このとき長男・虎之助(とらのすけ)は3歳、次男・鍋之助(なべのすけ)は生後3ヶ月でした。久子は次男・鍋之助を産んだ後の肥立ちが悪く、伊勢の実家で亡くなったのです。危篤の報せを受けて藤樹は伊勢へ急行しましたが、到着したときは死後二日たっていました。藤樹はそのときの無念な思いを晦養軒と号する人に送った手紙に書いています。(「与晦養軒」:『藤樹先生全集』第2冊534ページ)
 久子が亡くなった翌年の正保4年(1647年)、藤樹40歳の時に、藩主の意向をうけて藩士の娘である別所布理(べっしょ・ふり)を継室に迎えました。布理は翌正保5年(1648)に三男・弥三郎(のちの常省)を生みます。しかし、同年藤樹は亡くなり、布理は中江家から離れて親元に戻りました。(「藤夫子行状聞伝」:『藤樹先生全集』第5冊93ページ)
 『鑑草』では、夫の死後も妻は夫の家に留まり、舅(しゅうと)・姑(しゅうとめ)に仕えることを理想としていますが、藤樹は布里にはそれを求めなかったようです。(高島市教育委員会『藤樹先生』80ページ)
 この時代の女性については、ほとんど記録がない場合が多いのですが、藤樹の妻たちも例外ではありません。上記の『藤夫子行状聞伝』は、中江家の系図の説明文のような文書ですが、息子の名前は書いてあるのに娘のことは「女子」と書くなど、明らかに女性を差別しています。しかも他家から入った女性である妻や母のことは記事の中に少し出てくるだけで、項目さえも立てていません。だからほとんど何も分からないのです。



2024年12月7日公開。

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