日本漢文の世界

 

中江藤樹の講堂跡・藤樹書院訪問



21.中江藤樹の墓

藤樹の墓
藤樹の墓 位置図(赤枠部分)

 「近江聖人中江藤樹記念館」の見学が終わったら、藤樹書院へ向かって歩きましょう。
 記念館前の通りをまっすぐ歩いてゆくと、藤樹書院への道のりの途中に「玉林寺」という寺院があります。その門前に藤樹の墓があります。

「藤樹先生墓所」の標識
「藤樹先生墓所」の標識

藤樹の墓
藤樹の墓
左端が藤樹の墓、右奥が母親の墓、右手前が藤樹の三男・常省の墓です。

藤樹の墓の説明板
藤樹の墓の説明板
「儒式」を模した墓である旨が書かれています。

 塩谷宕陰の『中江藤樹伝』には、藤樹の墓の場所を尋ねた武士を案内するにあたり、藤樹に敬意を表するため、わざわざ礼服に着替える農夫の話がでてきます。この話は、橘南谿(たちばな・なんけい、1753-1805)の『東西遊記』の記事がもとになっています。南谿は藤樹の死後約140年をへた天明5年(1785年)頃に小川村を訪れました。訪れるきっかけの一つが、この話を聞いたことでした。

 先年、余聞きしことあり。
 尾州(愛知県)の一士人、用事ありて此の辺を過ぎ、先生の墓所(はかしょ)小川村に有りと聞きて、畑(はた)うつ農夫に尋ねしに、「畑道(はたけみち)なれば、知れ申すまじ、案内して奉らん」とて、先に立ちて行く。 ほどなく小さき藁屋(わらや)に到り、「しばし待たせたまえ」とて内に入り、やがて出(い)ずるを見るに、木綿の新しきひとえ物に、布の小紋(こもん)の羽織を着たり。
 かの士人驚きて、「さてさて丁寧なる男かな、墓だに教え得さすれば満足なるに」、と思いもて行くうち、墓所にいたりぬ。
 かの農夫、竹垣の戸を開き、「いざ入りて拝したまえ」といいて、その身は戸外(こがい)に拝伏せり。
 士人大きに驚き、「さては衣服を改め着(ちゃく)せしは、わがためにはあらで、(藤樹)先生を敬するにてあるける」と心づき、「さても汝は藤樹の家来筋(けらいすじ)の者にてやある」と問えば、「さには候(そうら)わず、されどこの村の者は一人として先生の御恩を蒙らざる無し、親をうやまい子をしたしむことをわきまえ知りたるは先生のおかげなれば、必ずおろそかに思うべからずと、わが父母も常々おしえ候いぬ」と語る。
 士人もはじめは只(ただ)なおざりに一見の心にて来たりしが、この農夫が様子を見聞するに、今更に心も改まり、ねんごろに拝して帰りぬ、となり。
(橘南谿『東西遊記』平凡社東洋文庫版では第1巻62ページ「藤樹先生」の項)

 藤樹の急死後、藤樹の家族も門下の弟子たちも離散して跡形もなくなりました。
 小川村には藤樹書院と藤樹の墓だけが残ったのですが、実はそのほかに意外なものが残っていました。藤樹が村人たちに噛んで含めるようにして教えていた道徳と、村人たちの藤樹に対する絶大な尊敬です。
 これらはとても強固なもので、藤樹の死後、村人たちの間で百年以上の永きにわたって代々受け継がれたのです。これは驚くべきことであり、これこそが藤樹が「近江聖人」と称される所以(ゆえん)なのです。
 戦国の余燼くすぶる中で、殺伐としていた村人たちの心が孝養心に変わるまで、諄々(じゅんじゅん)と教えつづけた教育者・藤樹の情熱と気迫が、彼から教えを受けた村人たちに強烈なインパクトと感激を与えたのです。村人たちはその感激を互いに語らずにはおられず、かくて藤樹の教えた道徳は、村内で百年以上もの長きにわたって語り伝えられ、実践されていくことになったのです。
 『藤樹先生全集』第5冊の「藤樹先生補伝」には、次のように書かれています。

 その近江聖人を以て称せるに至りしは何時(いつ)頃なりしか詳(つまび)らかならざるものありといえども、文章にあらわれしは実に「斯文源流」を以て嚆矢(こうし)とす。此(こ)の書は室鳩巣の門人・河口子深の著にして、先生の殁後(ぼつご)凡(およ)そ一百年に出(い)ず。(『藤樹先生全集』第5冊144ページ)

 小川村の人々の間で、百年以上もの長きにわたって藤樹から受けた薫陶が受け継がれたことは希有なことです。それを見て驚いた後世の人が、藤樹のことを「近江聖人」と呼ぶようになったのです。



2024年12月7日公開。

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